喪失は過去形
ゆうなが風呂場に向かってからほどなくして。
キュ、キュ、とシャワーの蛇口をひねり、流れ出す細かい水音が、ベッドの淵に座りながらそわそわしている俺の耳に届いた。
ああ、今ゆうなは俺の部屋でシャワーを浴びているんだ。
そう思うと胸の奥がさわさわとざわめいて、いてもたってもいられなくなってくる。
ヤバいよ、マジヤバい。
このまま期待通りの展開になれば、あと三十分としないうちに俺たちは体を重ねることになる。
俺の誕生日に!
それもゆうなに誘われて!
腰の辺りからうずうずとした感じを覚え、俺はベッドに思い切りよく倒れ込んだ。
そのまま枕を胸に抱き、ベッドの上をゴロゴロと何往復も転がる。
たまんねえー! マジゆうなたまんねえーっ!
今にも叫び出したい衝動を抑え、抱いていた枕を壁に投げつけた。
そんでもって行為の邪魔にならないよう掛け布団も部屋の隅へと投げ捨て、動き回れるだけの空間をベッドの上に確保する。
これで完璧っ。
「んふふ」
嬉しすぎて、つい気色の悪い笑みが漏れてしまう。
ああもう。今から興奮してきてしょうがない。
頼むぜ、マイサン!
ゆうなが望むなら、どんなことをしたって――
「えっ……あ……!」
勢いが余って己の愚息の様子を見ようと股間に手を触れた瞬間。
舞い上がっていた俺は――ようやく思い出した。
「なんてこったい……!」
俺が今、あかりという女だってことに。
おお、イチモツよ。いなくなってしまうとは情けない。
どうしてお前はこんな特大イベントに限って、役立たずに……!
いや、役立たずどころの話ではない。
その存在そのものが消失してしまっているのだ。
なんと悲しきかな、我が息子。ジーンズの上から股間部分に触れても、そこに感じられるのは喪失感という名の愚息の名残のみ。いや、名残もないか。
くそ、これじゃあゆうなとのにゃんにゃんが元の世界に戻るまでお預けになってしまう。
ナデナデを封印されただけでも狂おしいほど苦痛なのに、エッチまでできないとなったら、俺はもう……!
落ち込みに落ち込んで膝をついた、そのとき、
「あ、あかり……じゃなかった。あきら、どうしたの?」
濡れた体にバスタオルを巻いただけのゆうなが、少し慌てた様子で風呂場から飛び出てきた。
いきなりの登場と、そのあまりに刺激的な姿に、俺は驚いて固まってしまう。
すると、ゆうなは濡れた状態を構う様子もなく、ものすごい勢いで俺のそばまで駆け寄ってきた。
って、谷間がごっつ見えてるんですけどっ!
「どうしたの? 膝ついて落ち込んでるようだけど、平気? 元気ない?」
「え? あ、う、うん……」
なんていうか、そんなに心配されると素直に言うのが恥ずかしいというか。
口ごもってまともに返答できず、ゆうなの顔も、それはそれで恥ずかしいのでゆうなの胸元も見れず、俺はそっぽを向いて小さく頷くことしかできなかった。
まあなんにせよ、こうしてすぐさま心配そうに駆けつけてくれたゆうなの気持ちはすごく嬉しい。
風呂から出たてで俺の安否を気遣ってくれるなんて、相手のことを思ってこそ。ゆうなは、それをさも当たり前のことかのようにやってのけて見せたのだ。
「あきら、大丈夫?」
「うん、ありがとう。何でもないから」
……でも、感謝はしても恥をかくことはないよね。
心配そうに眉尻を下げて俺の肩をさするゆうなに、軽く笑いながら首を横に振った。
だって、まさかこんなに心配してくれている彼女に『いやぁ、女になってたことを忘れて思わず大きく嘆いてしまったよ。HAHAHA』なんてこと、恥ずかしくて言えるわけがない。
「そう……なら良かった」
「う、うん」
心の底から安心したように息をついたゆうなの仕草を見て、罪悪感がチクリと胸を刺す。
うう、ごめんよ、ゆうな。
世の中には言わなくても良いことがあるって言うし、勘弁してくれな。
「でも、なんでもなかったんなら心配させないでよ。ビックリするじゃない」
「あ、ああ。ごめんな」
すねたように頬を膨らませるゆうな。
それに対し、俺は長くなった髪をかきながら、これまた高くなった声で返事をした。
うう、この女の体が憎らしい。
こんな体じゃ、ゆうなと夜の営みができないじゃないか。
こうしてゆうなはバスタオル一枚という非常に刺激的な姿でいるというのに、今の俺ではそれを食う資格もないとは……。
添え膳食わぬは男の恥。
それをまざまざと実感させられていた。