帰宅と後悔と行動
*
それから俺とゆうなはホテルを出ることになった。
そのきっかけのなったのは、ゆうなの一言。
『どうせ考察するなら、菊地原先生と菅原さんのいるところでしましょう』
ゆうなと行動をともにすることで得た情報だが、ゆうなはその筋に疎いため、知識の明るい菊地原先生やゆたかに頼ろうという意見。
俺はこれを首肯し、手早く身支度をしてゆうなと二人でホテルを出た。
一時間に満たない時間しか利用してないことにもったいなさを覚えたが、そんなことを考えてる場合じゃないと下手な考えを頭から追い払う。
ホテルのエントランスを出ると、来たときよりもぐっと冷え込んだ空気が身を震わせる。
九月半ばでこれだけ寒くなってるということは、もうだいぶ夜が深いのだろう。
見上げると空は真っ暗に染まっていて、まばらな雲がただでさえ数の少ない星の数を減らしている。
星は残念でも、夜空で一番映える月は例外だった。
月は見事な満月で、何だかいつも見るそれよりもずっと鮮やかで大きく見える。
「菅原さんたち、まだあなたの家にいたみたいよ」
ゆうながそう言うのは、俺から借りた携帯電話で通話を終えてから。
ゆたかたちがどこにいるのか聞くために電話を掛けたのだが、ちょうど良いことにここから程近い俺の家にいてくれたらしい。
「都合は良いけど、今まで何してたのか気になるわね」
たしかにそうだね、と小さく笑って頷き、俺たちは歩き出した。
*
ホテルを出てから数分後、すっかり手の先が冷たくなったころに俺の家に着いた。
一抹の覚悟を胸に、俺は自宅の扉を開く。
鍵は開いていた。
「やあ、待っていたよ」
俺の自宅の玄関をくぐると、まず聞こえてきたのはゆたかの軽快な挨拶。
見ればゆたかの表情も軽やかで、無闇に爽やかな印象を受ける。
どうしてそんな表情をしているのか気になって聞いてみたら、
「だって、あかりに繋がるヒントを見つけたんだろう? これをお祝いしなければ私は友達甲斐のない女になってしまうよ」
ゆうなは電話でそのことを言っていなかったから、恐らくまたお節介焼きのゆたかのおじいちゃんが一役買ったのだろう。
幽霊相手にプライバシーも何もないな、と苦笑する。
ゆうなと共に部屋に上がり、玄関からは見えにくい位置に菊地原先生が佇んでいることに気が付く。
最後に見た菊地原先生の表情は険しいものだったが、今となってはそれも薄い。
薄いだけであって険の色が見られることに変わりないが、それでもよっぽどマシだろう。
菊地原先生が俺に対して怒っていた件が脳裏を過ぎるも、今はあかりへのヒントを掴んでいる事実の誇らしさの方が強い。
菊地原先生と目が合って俺が小さく会釈すると、菊地原先生は腕を組んで口を開く。
「話を聞こう。その内容によっては、私が君に謝罪することもやぶさかではない」
「先生、さっきまでと態度が違います」
渋い声の菊地原先生に突っ込んだのは、やや呆れた表情になったゆたか。
「何で先生はそんなに頑固なんですか。おじさんの意固地はツンデレとは言えませんよ」
「……」
久しぶりに聞いた気がするゆたかから出た苦言に、菊地原先生はゆたかに視線を送る。
それは睨むものではなく、何だか寂しげなものだった。
「菅原さん、無駄話はやめましょう」
菊地原先生とゆたかのやり取りに割って入るゆうな。
「どこまで正確かわからないけど、あきらの制限時間は一日しかないんでしょう? だったらそんなやり取りをしてる余裕はないと思うわ」
「それもそうだね。できればゆうながとうしてここまで協力的になってくれたのか聞きたいところではあったけど、それも後に回して良い議題だ」
「後に回したって、あなたには話さないわよ」
ゆうながゆたかの前に立って小さく笑うのを見つつ、俺は少なからぬ焦りを覚えていた。
――制限時間。
すっかり意識の外に漏れていたその存在を、ゆうなの言葉によって思い出したからだ。
慌てて上着のポケットに入れておいた携帯電話を取り出し、現在の時刻を確認する。
「じゅ、十時……」
表示されていた時刻は、夜の十時。
いつの間にこんなに時間が経っていたのか思い巡らすも、今まで起きた出来事のほとんどが濃い内容だったこと、最後に時間を確認したのが大学を出たときだったことを思い出し、愕然とする。
時間がない。
知らされた事実を飲み込み、はやる気持ちをぐっと堪える。
……焦ってる場合じゃない。
焦って取り乱して、成し遂げるべきことを成し遂げられないことなどあってはならない。
目指すべき目的を明確に掴んでいる今、それへの責務が俺の気を引き締めているのだろう。
俺から紡ぎ出す進行の言に迷いはない。
「じゃあ始めるよ。たった一つだけのヒントを取り逃さないために、俺に足りない知識を貸してください」
*
「どうしてこうなった……」
呟く俺の言葉は薄く、宙に浮いてすぐさま霧散する。
まるで意味を成さないことを半ばわかっているのに、唯一の抵抗がそれだけだから自然と口が滑る。
俺をベッドに押し倒した張本人に向けた言葉だったのに、何一つ返答はない。
ただ先ほどより荒くなった彼女の鼻息を顔に受けるだけ。
「や、やっぱり止めたい」
全て失敗だったとは言わない。
ゆうなと共に俺の家に戻って、菊地原先生とゆたかにゆうなに関するヒントについて話をしたことは正解だっただろう。
さもなければろくすっぽ知識のない俺とゆうながうんうんと悩むだけ悩み、例の制限時間を使い切ってしまったに違いない。
ただし、その後まで絡めてくると俺は前言撤回せざるを得ない。
俺がオカルト趣味の二人に知恵を借りようとしていたのはたしかだ。
知恵を借りるということは、あわよくば先の指針も示してもらえることを期待してもいた。
でも、こうなることは想定してなかった。
実に全くこれっぽっちも考えてすらいなかった。
「いい加減、覚悟してよね。見た目は女のあかりでも、中身は男のあきらなんでしょ?」
ホテルを出てからしばらく。
場所を俺の家に変え――再びゆうなに襲われようとは。
「それとも、そっちの世界だと煮え切らない男の方がモテるのかしら」
ゆうなが言うのと同時、チロリと出したゆうなの舌が俺の頬をくすぐるように舐め上げる。
ゾクリとした悪寒が背筋を巡ったのは、たぶんその感触によるものだけではない。
俺はゆうなに襲われる。
それも、俺が気絶するまで絶頂させるという条件付きで。
「あなたがすべきだった反省は、もうクリアされたのよ」
ゆうなの柔らかい髪が頬に触れ、舐められて濡れた箇所に張り付く。
薄桃色の弾力あるゆうなの唇が動き、優しげな言葉が紡がれる。
「菊地原先生に言われたでしょ? これまでのあなたに足りなかったのは、自分で物事を決めていく行動力」
ゆうなの言うように、それは先ほど菊地原先生に言われたこと。
俺が今までしてきたのは、誰かに頼るためとか、誰かに流されてとか、そういう他力による行動ばかりだった。
俺がこうするべきだと考え、自分で決めて動いたことはほとんどなかった。
だから、今の行動はその反省を踏まえているとも言える。
近すぎて気恥ずかしかったが、そっと視線をゆうなの唇から目へ向ける。
やや垂れ気味の大きな目は、俺のそれと合うと目尻に小さなしわを作って微笑む。
「あかりと会うためには、この部屋で意識を失うのが一番可能性高いんでしょ? そのために、あきらと私が頑張るの」
菊地原先生とゆたかから聞いた話をまとめると、恐らくあかりはこの世界、あるいはこの世界から会いに行けるところに存在する。
俺のあかりと会った記憶が曖昧なところもあって、本当に俺が見た白昼夢だった可能性も捨てきれないが、それもあくまで可能性。
同じ可能性に賭けるなら、俺は希望のある方に賭ける。
そして導き出したのが、あかりと再び会うための方法。
今、この世界で入れ替わりの真理の一番近くにいるのはあかりだろう。
あかりは俺と入れ替わり、この世界とは思えない場所にいた。
だから、またあかりと会えれば何か聞き出せるはず。
そのために推測し、出てきた答えが、この部屋で意識を失うことだった。
俺の記憶にあるあかりと会ったのは、この部屋でゆうなに突き飛ばされた時のこと、俺はたしかに一瞬ほどの記憶を失って、あかりと邂逅した。
だから今度は、唯一のヒントだったそれを、あかりと再び相見えるための再現方法として活用する。
同じ方法ならば、全く見当も付いていない他の方法よりずっと成功する確率が高いだろう思い、ゆうなに俺を突き飛ばしてもらうよう、俺から提案した。
あの時と同じ立ち位置に揃えて、覚えている限り状況を再現してゆうなに突き飛ばしてもらう。
一回では気を失うことができず、二回目、三回目。
何回も何回も突き飛ばしてもらい、山ほど床に頭を打ち付けて……。
ちっとも気絶できず、ちょっと泣いた。
よく考えれば突き飛ばされると理解した上で突き飛ばされたところで、反射的に体が自分を守ろうと動いてしまう。
そうした中で気を失うためには相当打ち所が悪くないと無理で、そんな打ち方したら命が危ない。
だから論点は、いかにして俺を気絶させるかに推移した。
あかりは『今度こそ忘れんなよ』と、以前も俺たちが会っていることをほのめかしていたのだ。
俺が覚えている限りではそんな記憶がないということは、俺が覚えていない時に会っていたということ。
今日の記憶は、俺が起きている間は全て繋がっている。
ならば残るのは、俺が起きていない間。
要するに、意識を失っていた時だけだ。
方法はとにかく、この部屋で気絶させることを目下の目標とするべきだ、という俺の意見は満場一致で通る。
生憎とゆうなもゆたかも菊地原先生も、格闘技にある人を締め落とす技など確実に人を失神させる術を知らなかったので、どうして気絶させようかまた悩むことになったが。
その後、紆余曲折あって再びゆうなに襲われる――それも俺が気絶するぐらい徹底的にやることになるのだが、被害者たる俺には何故そんな流れになったのかわからない。
そこに至るまでの会話には参加していたし、どのような経緯でその話題に遷移していったのかも覚えている。
しかし、どうしてその結論に落ち着くことになったのかが理解できない。
とにかくゆうなの巧みな話術で丸め込まれたような気がする。
この方針に決まるとき、俺から『やってやるよ! いや、やられてやるよ!』と豪語していたくらいだから、やっぱりゆうなはやり手なのだろう。
今度は菊地原先生とゆたかに俺の家から出ていってもらい――ゆたかには、もう祖父母に俺たちの様子を覗かないようにキツく言いつけておいて――ゆうなの優しい手解きでベッドに押し倒される。
不思議と冷たくないシーツの感触を、ワンピースの生地越しに感じて、そこでようやく冷静になった。
どうしてこうなったのだろうと、純粋にこの結末を疑問視する形で。
「あんまり緊張したらダメよ」
俺の耳元、甘く囁くゆうな。
「変に体を固くしてたら、せっかくの行為も気持ち良くなくなっちゃうわ」
「いや、気持ち良さは求めてないんだけど……」
「じゃあ痛い方が好き?」
そんな極端な。
「あきら、これだけは覚えておいて」
ゆうなの声のトーンが落ち着き、一転して真面目なものに切り替わる。
ゆうなの顔は俺から離れ、上体も起きて肘を張った分の距離を置く。
急な転換にやや戸惑うが、近すぎたゆうなとの距離が離され、押し倒されたままながらも真っすぐ向き合い、自然と聞く体勢ができた。
それから少し空け、ゆうなは話し出す。
「あなたがあかりに会うのは、何のため? オカルトを信じたくない私が、こんなに現実味を帯びないことに協力する理由は何?」
二つの疑問。
真摯なゆうなの瞳が俺を射抜く。
ゆうなの瞳の中に映る俺の姿が見えてしまいそうなほど、互いに見つめ合う。
「もうわかってると思う。でも、言っておくことにも意味があると思うの。あきらは、ちょっと流されやすいところがあるしね」
実際にあきらを流した私が言えたことじゃないけど、と続けた言葉に二人して小さく笑った。
「うん、大丈夫」
俺は頷いて自分の意識を確認する。
俺があかりに会おうとしているのは、何も他愛もない話をするためなんかじゃない。
再び自分たちの在るべき場所に戻るため、そのヒントを微かなもので良いから求めるため。
そのために会おうとしていることを、俺はちゃんと意識している。
答えは一つだけ。
「――あなたは、目的が見えてれば動ける人だからね」
ゆうなは言う。
それは俺にとって予想外の言葉で、だからこそ胸に響く。
俺がすべき反省は、果たされた。
あとはそれを取り落とさないよう、ちゃんと持っていればいい。
「じゃあ、」
不意にゆうなの声色が変わる。
それはとても楽しげな色。
それにぎょっとした俺の反応は、間違ってなかった。
「いただきますっ」
にっこりと微笑むゆうなの顔は、酷く悪魔的に見えた。