あかりとの記憶
「何……? ねえ、あきら、一体何の話をしているの?」
ゆうなの表情、声色には不信感が強かった。
俺から出た「あかり」という名前に少なからず反応しているようで、不信感の中にも動揺の様子が見られる。
俺自身、確かな記憶ではない。
おぼろげで霞むような、いま離してしまったら二度と思い出せなくなってしまいそうな、夢の記憶。
だから、慎重に言葉を選ぶ。
「たぶん、少なくとも二回は会ってると思う」
「何、どういうこと? 本当のあかりは、あきらとは別に存在してるってこと? 私と別れた後に、あきらは本物のあかりと会ってたの?」
ゆうなが言うのは、この世界にあかりがいるのか、という問い。
今の俺の体はあかりのものだが、他にもあかりの体があって、本当はそっちが本物のあかりなのか、ということ。
それに対し、俺は首を横に振る。
「違う、そうじゃない。俺自身、釈然としないんだけど……」
「釈然としないのはこっちよ。お願いだから、ハッキリ言って。じゃないと、私にはわからない」
ゆうなが焦ってる。
俺の顔のすぐ目の前、本当に目と鼻の先でゆうなが俺の言葉を急かす。
「夢で、会ったと思う」
「ゆ、夢?」
途端にゆうなが拍子抜けしたのがわかり、俺はむっとする。
「……信じてないだろ」
「信じるも何も……。夢なんでしょ? だったら、本当に夢の中で会ってたとしても、それはあきらの夢の中のあかりであって、本物のあかりじゃない。違う?」
ゆうなの言葉を聞いて、俺の言いたかったことに語弊があったことがわかった。
でも、パッと適当な言葉が出てこない。
「えっと、そうじゃなくて……何て言えばいいのかわからないんだけど、夢は夢だけど夢じゃないところで、っていうか。何か精神世界みたいなところで、っていうか」
「急かしちゃってごめんね。ゆっくりでいいから、整理していこっか」
俺は頷き、ゆうなは俺の上から退く。
俺達二人はベッドの淵に腰掛けて隣り合う。
互いが軽く手を伸ばせば触れ合える距離。
それはゆうなにこのホテルの部屋に連れられた時と同じ位置づけで、つまり先ほどゆうなに襲われた時と同じ。
そのことに気がついて半身ほどゆうなから遠ざかった位置に座り直すと、ゆうなからジト目を向けられる。
「何で警戒してるのよ。私が分別つかない女に見えるの?」
「……よく言うよ」
今度は軽く睨まれたが、今はちゃんと話すことの方が大事で、俺の身を守るのも準じて大事。
――じゃないと、あかりに怒られる。
「で、夢の世界であかりに会ったって、どういうこと?」
ゆうなも諦めて、俺の話を促してくる。
ベッドに後ろ手をついて脚を組み、ゆうなは俺に流し目を向ける。
「先に言っておくけど、あんまりオカルト染みた話はやめてね。前みたいに意固地になって拒絶はしないけど、だからって得意になったわけじゃないんだから」
「じゃあ、先に謝っておくよ」
ゆうなは驚いたように小さく目を見開き、少しして苦笑い。
まあいいや、と言うゆうなの言葉を聞いて、俺は続きを話す。
「あかりと会ったのは、本当はどこだかハッキリしない。ちゃんと説明できそうにないから、少し長くなるけど順を追って話すよ」
「うん、そうしてくれると助かるわ。オカルト染みた話だと、私も理解するのが大変だからね」
俺は目を閉じ、一呼吸置く。
瞼の裏側に浮かべた情景に、俺には適切な言葉を当てはめることができない。
ゆたかや菊地原先生なら、きっとすぐに言い表すことができるのだろう。
でも、俺は彼女たちのように雄弁ではない。
俺は初見のジグソーパズルを隅の方からはめていくように、それが正しいのかどうか一つ一つ確かめながら話し出した。
「――俺とあかりが会ったのは、そんなに前のことじゃない。さっき、俺の家にゆうなとゆたかがいた三人の時だ」
「あなたの家って……」
何か言おうとしたらしいゆうなは、俺がちらっと目を向けると口をつぐむ。
とにかく今は話を聞いて欲しい、という俺の意思が伝わったらしい。
「ゆうなとゆたかが俺の家にいた時って、タイミング的に二回あったでしょ? 一回目は、ゆうなが謝ろうとうちを訪ねてきてくれた時。二回目は、一度出てもらったゆたかを電話で呼び戻した時」
うん、とゆうなが頷く。
「その二回目の時に、俺とあかりは会った」
そう言った俺の顔を見つめるゆうなの表情は複雑だ。
主たる表情は真面目なものだが、うっすらと疑心めいた感情も見られる。
「言っておくけど、俺とあかりが会ったのは俺の家だけど、あかりがいたのは俺の家じゃないよ」
「ねえ、あきら。なぞなぞじゃないとしたら、すごく難しいこと言ってるわよ。少なくとも私には、そこがどこだかわからないわ」
「まあ、そうだよね」
眉尻を下げて言うゆうなは、その返答の早さに対して、俺が言おうとしていることを汲み取ろうとする姿勢が見受けられる。
もし先ほどのゆうなの暴露がなかったら、こんな風におかしな話を聞いてくれるゆうなはいなかっただろう。
前だったら、全く聞く耳を持たなかったか、もしくは話をするだけで怒り始めたかもしれない。
これからおかしなことを言わなければならない俺は、純粋にそのことをありがたく思う。
「ゆたかが俺の家に戻ってきて、少しした後だったかな。ゆうなが怒って、俺を突き飛ばした時のことは覚えてる?」
「うん、覚えてる。……ごめんね」
「あ、違う違う。謝って欲しかったわけじゃないから」
申しわけなさそうに目を伏せたゆうなに、俺は慌てて手を横に振る。
「言いたかったのは、俺はその時に少しだけ気を失っちゃって――その時に、あかりに会ったって言いたかったんだよ」
俺が思い出すのは、真っ黒な霧の世界。
天井天地がわからなくなるような何もない空間。
「何て言うか、瞼を閉じた時みたいな色で包まれたところでさ」
基本的には暗くて何も見えないけど、まぶたの隙間から光が入ってきているみたいに、うっすらと見えたものがあった。
そこにいた白いワンピースを着た女の子だ。
「白いワンピース……ちょうど今の俺が着てるみたいなやつを身につけた女の子がいたんだ。背がちっちゃくて、体も細かった」
未熟な少女と言うより、成長した結果としてそうなったような印象を受ける体型だった。
「それが……」
「うん、あかりだった。そんなところで、俺はあかりと会ったんだ」
俺が言い終えるが早いか、ゆうなはゆっくりとまぶたを閉じる。
静かに息を漏らし、数秒。
閉じたときよりもゆっくり目を開いたゆうなは、ただその瞳にかげりを見せる。
「意味がわからないだろ? 気を失ってる間に俺とあかりと会ったなんて。言ってる俺自身、何でそんなことになったのかわからないぐらいだし」
「うん……」
ゆうなの表情は明るくない。
眉根を詰め、困惑している様子。
「気を失ってそこに行ったのか、そこに行くことが気を失ったように感じたのか。それとも、たまたま気を失ったタイミングだっただけなのかわからないけど、あかりと会ったのはその時に間違いない」
ゆうなが神妙な顔で頷くのを見届ける。
「そして、その時にあかりに言われたことがある」
『――今度こそ、忘れんなよ』
それが俺の覚えているあかりの唯一の言葉だった。
「今度こそ、忘れんなよ……?」
俺の言葉を繰り返すゆうなは、変わらず釈然としない顔をしている。
「あくまで想像だけど、たぶん俺とあかりは前にも会っていた。で、その時にあかりに何か言われたりしたんだけど、俺は忘れてしまった。だからあかりは、今度こそ忘れるなって言ったんだと思ってる」
今度こそ、とあかりが言ったということは、前回があったということ。
残念ながら前回、俺はさっぱり忘れてしまったけど、あかりから何か忘れてはいけないことを聞いたりしたんだと思う。
そう考えれば、あかりの言葉に納得がいく。
「うん、そう考えると筋は通るけど……。あかりは一体何を忘れるなって言ったの?」
「……ごめん」
俺が一瞬言葉を詰まらせて謝ったのは、そこに引け目を感じていたから。
「忘れるなと言われたことは覚えてるんだけど、それだけなんだ。何を忘れるなって言われたのか、ちっとも思い出せない」
それこそ、俺は忘れるなと言われたことを忘れてしまったのだろう。
忘れたと言えば、それだけではない。
「あかりと会ったこの話さえ、ついさっきまで本当に忘れてた。あかりと会った直後にいろいろあったのもあるし、本当の夢みたいに印象が薄かったのもある。さっき無意識に出た言葉で、ようやく思い出す糸口を掴めたんだ」
「そう、無意識だったのね」
ゆうなが意味ありげに頷いたのに首を傾げたが、すぐに思い直す。
俺が思わず言った「怒られる」という言葉に、ゆうなは疑惑を抱いていたのだ。
「ゆうなはまだ疑ってるのかもしれないけど、本当に無意識だったんだよ。頭が真っ白になって、思考も全然回んなくって。その時、不意に「怒られる」って言葉が出てきた」
俺自身、何て言ったかすぐにはわからないくらい混濁した意識だった。
だから、考えた。
「何で「怒られる」なんて思ったのか、誰に「怒られる」と思ったのか。よくよく考えて出てきたのが、あかりと会った記憶」
俺はゆうなから視線を外して、天井を見る。
照明によって薄桃色に染められたそこは、ぼんやりとした淡い色合いをしていて、何ともまあそういう雰囲気がある。
何だか体がだるく感じて、俺は重力に身を任せて背中からベッドに倒れ込んだ。
長い髪の毛というのはやっかいらしく、意識せずに寝転がったせいで後ろ髪を背中に敷いてしまって変に後頭部が引っ張られる感触がする。
慣れない感覚が気持ち悪くて身をよじると、視界の隅にこちらを見ているゆうなの顔が映った。
目を合わせると、ばつが悪そうに視線を逸らされた。
「ゆうな、やっぱり俺のこと、疑ってる?」
「疑ってるという言い方は、ちょっと聞こえが悪いわ。ただ、まだわからないことがあるだけ」
聞いて良いよ、と言うと、ゆうなはベッドの淵に座ったまま体をこちらに向ける。
「あなたのその記憶はどこまで確かなの? だいぶ曖昧なように感じたけど、さっきあなたの家にいた時のことを思い出すぐらいには鮮明?」
「ううん、そんなに鮮明なものじゃない。最初に言ったみたいに夢みたいな感じ、っていうが正しいかも。大体の輪郭は覚えてても、しっかり思い出そうとすると途端にぼやけちゃう感覚かな」
視線をゆうなから天井に向け直し、目を閉じる。
聞こえてくるゆうなの声は、俺が男だった時と変わらない。
「じゃあ、教えて。あなたの言ったあかりと会った出来事が本当の夢じゃないって言い切れる証拠はあるの?」
懐古に浸って聞いた言葉が、俺を疑うものなのには苦笑するけど。
目を開け、ゆうなを視界に入れる。
ゆうなが俺を疑って見る表情は、この世界に来てから幾度と目の当たりにした。
それらがいつ向けられたのかあげたらキリがなく、そのどれも大別すれば懐疑の視線であることに変わりはない。
だが、今回のはこれまでのそれとは異なっている。
俺を疑う様相こそそのままだが、そこに含まれるのは、躊躇いと頭ごなしに否定しようとしていない柔軟な姿勢。
今までならゆうなに疑いの目を向けられただけで体を固くしていた俺でも、これなら普段と変わりなく接することができる。
例えそれが、ゆうなの期待する答えでなかったとしても。
「証明なんてできないよ」
俺が首を横に振れば、ゆうなは小さく眉尻を下げる。
「俺はあかりと会った出来事をまるで夢を見たときのようにしか覚えてない。だから俺自身でもわからないことが多いし、自信もない」
「じゃあ、最悪のケースとして、本当にあきらの夢だったってこともあり得るのね?」
「本当に最悪なケースだけど、あり得ると思う。もしそうだったら、せっかくのあかりへの手掛かりがなくなっちゃうんだし」
あかりへの手掛かりを失うのは、俺からすれば何に代えても失いたくない大事なものだ。
今まで掴むどころかその尻尾を見ることすら難しかったのだから、例え夢幻である可能性を秘めていようと信じてみるしかない。
「……」
一呼吸ほど間を空けたゆうなは、一度顔を下げる。
それから紡がれる言葉はか細い。
「じゃあ、わかった。夢かもしれない、あかりと会ってないかもしれないってリスクを含めてあきらがそう言うなら、私から言えることは少ないわ。だって私ができるのは、あきらが言ったことのあら探しぐらいだもの」
その声色は悲しげで、苦しげで、再び上げた顔には苦笑が浮かべられていた。
「なら聞かせてよ、ゆうなが気づいたこと、思ったことを全部」
俺はベッドに横たえていた体を起こし、ゆうなの隣に座り直す。
この世界に来てから何度も感じたことだが、あかりの体は小さい。
隣に座るゆうなの顔の位置は俺のそれより高く、否応にも見上げる形になり、ゆうなからすれば上目遣いしているように見えるのだろうか。
ゆうなの笑みから苦みが薄らぐのがわかる。
「さっきゆうなは俺を疑っただろ? 怒られるって誰に、って。前にゆたかのこともあったから、ゆたかと何かあったんじゃないかって勘ぐるのも仕方ない。俺が逆の立場だったら、ゆうなと同じように疑わずにはいられなかったと思う」
だから、と続ける。
「色々言いたいことを我慢してるのはわかってるけど、我慢しないで欲しいんだ。俺に気を遣って辛そうなゆうなの顔を、俺は見たくない」
今度はゆうなの顔から笑みも薄らぎ、一度感情がなくなったように平坦になる。
それから開き掛けた口は、話されるより前に聞きたくない内容だとわかったから、俺は邪魔をするように続けた。
「さすがに前みたいにキツい言い方は嫌だから、優しく頼むよ? あかりの体だと、俺ってすぐ泣いちゃうから」
開き掛けていたゆうなの口はそのままあんぐりとし、少しの間。
「たしかに泣き虫ね。あかりより、あきらの方がずっと泣き虫だわ」
目尻がくしゃっと歪み、口元に手を当てて小さく笑った。