ゆうなとの関係性
それは一息の間。
僅かな驚きと、ついに聞かれてしまったかという諦めのような感情が見え、ゆうなは一度呼吸を止める。
それから肺に溜まっていた空気を吐き出し、小さく吸う。
「……いいわ、話してあげる」
切り出された言葉は小さく、その目は伏せられ、悲しい思い出を語るよう。
「私と菊地原先生に直接の面識がないのは、あきらも知ってるよね」
うん、と俺は頷く。
それは今までからしてわかることだし、もし嘘であるなら、昼間の通学電車内で二人は会っているはず。
ならばその時に何の反応もないのは変で、だからこそ二人に面識はないのだろう。
「菊地原先生は、私のカウンセラーだった人。そのカウンセリングは電話を使ったやつだったから、私たちに直接の面識はないの」
「カウンセリングってことは、ゆうなが菊地原先生に相談してたってこと?」
「そう。私が高校生だったころ、同性愛についてすごく悩んでたころの話。学校で、性教育の一環として外部から講師を呼ぶ授業があったの。体育館に同学年の生徒が集められて、一時間くらい講義を聞くって授業」
そういえば、うちの高校でもそんな授業があった気がする。
「もしかして、その時の講師が菊地原先生?」
「うん、その通り。私はかなり後ろの方だったから、菊地原先生の顔とか全然見えなかったけどね」
だから菊地原先生の講義を受けたことはあるが、面識はなかったのだと言う。
「性教育全般に関する講義のはずなのに、同性愛に関する内容だけすっごく熱く語ってたのを覚えてるわ。おかげで講義の時間が押しちゃって、次の授業の半分くらい潰れちゃってた」
何だか菊地原先生らしいエピソードだな、と思って小さく笑う。
あの人、俺に色々教えてくれた時も、最終的に息子のブーツフェチを暴露しちゃったくらいだし。
「それで、私と菊地原先生が直接的な関係を持ったのは、菊地原先生の講義の時に配られたプリントがきっかけ」
きっかけ、というそのプリントの内容を聞けば、
「電話番号があったのよ」
プリント自体は、講義内容を簡略的に書いた案内のようなもの。
その下部に書いてあった電話番号が、菊地原先生へ直通のものだったらしい。
「講義の最後に、菊地原先生はこう言ってたわ。「プリントに書いてある番号は私のものだ。悩みがあれば、非通知なり匿名なりで掛けてくると良い。性に関するものでも、そうでないものでも一向に構わない。平日の十九時から二十五時までならばできる限り応対しよう」って」
つまり、人に相談しにくい性に関する悩みがあれば、個人情報を隠し、カウンセリングをすることができる。
そうしたきっかけを、菊地原先生はゆうなに残していったということ。
「すぐには掛けなかった。深く悩んでた時期だったから、例え電話越しで匿名だったとしてもなかなか踏み出せなかったの。それでも一ヶ月もしないうちに掛けちゃったんだけどね。それだけ、身分をばらさずに相談できるっていうのは魅力的だった」
あと、とゆうなは続ける。
「講義をしていたときの菊地原先生が、すごく格好良くてね」
「え……」
「あ、違うのよ。その時は顔が見えなかったし、体臭もわかんなかったし」
ゆうなは繕うように口早になるが、すぐに小さく笑う。
それは思い出し笑い。
「でも、話の内容はすごく惹かれたの。同性愛はマイノリティだけど、マイノリティは悪いことじゃない。私はマイノリティの味方だ、なんて公言までしちゃって、すごかったんだから」
当時を思い出すかのように、ゆうなは小さく目を細め、慈しみに似た表情を浮かべる。
ゆうなにとって、それはとても良い思い出になっているらしい。
すっかり和らいだ雰囲気に当てられ、俺の気持ちまで弛緩するようだった。
「人の記憶は美化されるって言うけど、本当ね。当時、菊地原先生に電話をかけるまでの一ヶ月間、日に日に電話を掛けたい気持ちが膨らんでいった。あたかも菊地原先生は聖人君子のような立派な人で、人の悩みにも、それこそマイノリティなものこそ親身になって聞こうとしてくれる。あの人になら打ち明けても良い、いや打ち明けてみたいとまで思うようになってた」
まるで心酔ね、とゆうなは言う。
その表情は苦笑い。
「何か特別なきっかけなんてなかったのに、単なる時間の経過に過ぎなかったのに、気が付いたら菊地原先生に電話を掛けてたわ。きっちりと夜の七時ピッタリ。一分でも早く掛けてしまったら話を聞いてもらえなくなっちゃうんじゃないかと怖かったし、逆に一分も遅くは我慢できなかった。だから七時ちょうど。今思えば、なんだか片想いしてるみたいね、私から菊地原先生に向けて」
心外だけどね、とおどけて笑う。
「やっぱり気兼ねがないって、素晴らしいことだと思う。恥も外聞もあって非通知、匿名でのやり取りだったけど、当時の悩みは打ち明けられた。友達にだって、もちろん両親にだって吐露したことのない心の内側」
ゆうなは自身の胸に手を当て、目を閉じる。
「それを一度しか見たことのない、しかも顔だってよく見えなかった男の人に話すって思うと、それだけで心が震えたの。何だかすごくいけないことをしているような気分で、でも話せば話すだけ軽くなるの。窮屈だった心が解放されて、それでこんなに思い悩んでたんだって気付き直せたくらい」
胸に当てていた手を握りしめ、細く目を開く。
「とにかく刺激的であり、しっかりと心の負担まで取り除いてくれる。人に打ち明けられたということもそうだけど、やっぱり菊地原先生の聞き方はうまかったと思う。きっと美化の一種なんだろうけどね」
目尻が下がり、とても優しい笑み。
何だか菊地原先生に嫉妬してしまうくらい、ゆうなの表情は満ち足りているように見えた。
「だから、すごく失望しちゃったの」
急激にゆうなの語調が変わる。
それは言葉通りの落胆した色。
「当時、私は菊地原先生の容姿を知らなかった。人となりをあまり深く知らなかった。だから今日、あんな最悪な男の権化みたいな人だって知って、酷く失望したわ。悲しい気持ちすら湧いてきちゃったもの」
それはゆうなの表情にまで波及し、眉尻が下げ、どこかいじけるように唇を尖らせる。
今まで語ってくれたゆうなの中の菊地原先生と、現実の菊地原先生。
同一人物だからこそ、その両者に共通点は見られるけど、もし俺が菊地原先生本人に会わずにゆうなの話だけを聞いていたら、現実の菊地原先生をその本人だと特定できたかどうか。
憧れだった人が自分の想像していたものと異なり、それもイメージダウンの方。
だからゆうなは、こんなにも目に見えてショックを受けているのだろう。
ただ、ちょっと面白かった。
それは今まで――俺とゆうなが仲違いしていた間、ゆうなのこんないじけた表情を見ていかなかったこともある。
でもそれ以上に、そうしたゆうなの姿を俺のいた元の世界のゆうなと重ね合わせ、微笑ましいものとしての感情だった。
だから、
「ちょっと、何笑ってるのよ? 私は真面目にショックなのよ」
ゆうなにそう怒られるのは、ちょっと心外だった。
「違う、違う。ゆうなが怒るような理由じゃないよ。ゆうなが思ってるのとは違う理由で笑っちゃったんだ」
「違う理由? あ、待って、私が当てるからまだ言わないで」
最初はむくれた様子だったゆうなは、喋り出そうとした俺を制止し、腕を組んでうんうんと悩み始めた。
何だかそうした仕草も元の世界のゆうなを彷彿とさせて、いっそう微笑ましさが増したように思う。
この世界のゆうなは、元の世界のゆうなより幾分も大人びて感じる。
それは、こちらのゆうなが同性愛者ならではの悩みを抱えていた苦労が表れているのか、恋人が華奢なあかりだから自然とそうなったのか。
ゆうなは俺のいた世界のゆうなとは同一人物で、同時に赤の他人でもある。
矛盾しているようで、難解なようで、でも俺が感じるのはそうした認識だった。
「あ、わかった」
ゆうなは大きな目をより見開き、小さく笑って俺の膝を叩いた。
それから叩いた俺の膝に手を置き、そこに軽く体重をかけて乗り出してくる。
ベッドの縁に並んで座っているから、ゆうなとの距離はとても近い。
抱き合っているのよりは離れただけの至近距離で、ゆうなは面白い悪戯を思いついたように口端を上げる。
「私のこと、バカにしたんでしょ?」
「いや、だから違うってば」
その笑みとは裏腹に、ゆうなの回答はまるで見当はずれだった。
「ふぅん、本当に?」
でも、ゆうなの笑みは崩れない。
むしろ深くなったように見え、無意識に体が固くなる感覚を覚えた。
あれ、何で俺、固くなってるんだろう?
ゆうなは答えを外し、それでも笑っている。
言ってしまえばそれだけのことなのに、どうして緊張に似た感情が湧いてくるのか。
身をすくめたくなる思いが湧いてくるのは、何が原因なのか。
「ゆ、ゆうな、何か企んでない?」
ほとんど無意識に紡ぎ出た言葉。
そんな言葉が勝手に出てきたことにも驚いたが、それ以上に驚いたのは、それがどうにも的を射ているような気がしたからだ。
「企んでる? 何を? 何で?」
ゆうなの笑顔はそのまま。
一見して優しそうに見えるそれに、俺には影が差しているようにしか見えない。
「――ッ!?」
急な刺激が体の中心を走り抜けた。
電気に似たそれの発信源は、ゆうなが手を置いている俺の膝元から。
すっ、と流れるような動きで、ゆうなの手が俺の太股側へスライドしたのだ。
それはまるで、柔らかい絹で撫でつけられ、くすぐられたよう。
「ん、どうしたの?」
元の体より敏感になっているとしか思えない。
ゆうなからすれば軽く触っただけにしか思っていないであろうそれを、
「今、ビクってしたね。何かあったの?」
ゆうなにからかわれるように笑われるほど、過剰に反応してしまった。
「ちょ、ちょっと待って、なんかおかしいっ」
「おかしい? 何がおかしいの?」
逃げようとゆうなの手を両手で掴むも、その手をゆうなのもう片方の手が押さえる。
俺が全力を出していないこともあるだろうが、それにしても俺の両手を押さえるゆうなの手から逃げられる気がしない。
強く押さえつけられているわけではない。
ゆうなの顔にはうっすらと笑みが浮かぶだけで、でも俺には残酷な嘲りにさえ見える。
まるで蛇に睨まれた蛙。
細まったゆうなの瞳と目を合わせただけで、俺の皮膚がアスファルトに変えられてしまったようにビクリとも動けなくなる。
「だ、ダメだってっ」
俺は両手で押さえているのに、今度こそ目一杯力を込めて押さえているのに、俺の太股を這うゆうなの手が止められない。
ぬたりと這いずるナメクジのように、でも女性の手らしい適度な柔らかさを持ったそれは、着実に俺の股に向けて進んでくる。
「て……手をどけて……!」
「あら、嫌ならどかして良いのよ。私、全然力入れてないよ」
嘘だ、と言いたかった。
俺が両手掛かりで押さえられないのに、ゆうなが力を入れていないわけがない。
そうした思考は、瞬時に消え去る。
俺の太股を触るゆうなの手の感覚を探る限り、たしかにゆうなはほとんど力を込めていないようなのだ。
そして同時、俺は逆だったんだと気がついた。
ゆうなが強く力を込めていたんじゃない。
力を込めていたつもりだった俺の両手は、何かリミッターでも掛けられたようにまるで力不足だったのだ。
「な、何で力が入らないんだよ……」
「本当は嫌じゃないんじゃないの?」
くすり、と。
ゆうなは俺の両手を押さえていた手を――まるで必要をなくしたように、自身の口元に当てて小さく笑う。
妖艶な笑み。
「本当に嫌だったら、もうとっくに私から逃げられてるんじゃない? もっと力が入ってるはずだし、身をよじって逃げられることもできるだろうし」
ゆうなの言葉にハッとして肩から体を捻って逃げようとするが、口元に当てられていたゆうなの手が俺の肩を掴まえることにより、呆気なく失敗と終わる。
「単純だね。私が言ったことをそのままやっても、私から逃げられるわけないじゃない」
冷静に考えれば、たしかにゆうなの言うとおりなのだろう。
でも今の俺はゆうなに掴まっている現状に焦っていて、とてもではないがそこまで思考が働かない。
そう言うゆうなが俺をバカにしていると思い、軽く頭に血が上る。
「な、何だよ。何だって急にこんなことしてくるんだよ」
「急じゃないわ。だってここ、そういうホテルでしょ?」
一瞬、閉口。
「い、いや、そうだけどさ……そういう目的で入ったわけじゃないし」
ゆうながここを選んだ理由を、入った時点ではその意図を掴めなかった。
というよりも、考えるだけの余裕がなかったのもある。
でも今になれば想像できる。
ゆうなは昔の話をする上で、そういったナイーブな内容を他の人に聞かれたくなかったのだろう。
だからファミレスとかの公共のスペースではなく、ここにした。
ここなら他の人に話を聞かれる心配は少ないし、俺の家からほど近い場所にあったことも影響しているのだろう。
そういう認識だったのだが……。
「私は、半分はそういうつもりだったわ」
俺のそれを覆すゆうなの言葉は、実にあっさりとしたものだった。
「半分はそういうつもりだったって言っても、絶対にそうするつもりで企んで連れてきたわけじゃないのよ」
身をよじって逃げ出そうとした俺の肩を掴んでいたゆうなの手は、俺の背中側を回って、俺の肩を抱く形になる。
元の世界では小さくて可愛らしいと思っていたのに、今は俺の肩を抱けるほど大きい。
姉と妹の、妹になった気分。
「あわよくば、って思ってたの。あわよくばそういう展開に持ち込めたらな、って」
ゆうなは俺の肩を強く抱き寄せる。
思いがけずビクリと反応してしまい、ゆうなに小さく笑われた。
「ふふ、可愛い。こういう反応を見ると、付き合い始めたころのあかりを思い出すなぁ。あきらって、男の時でもこんなに可愛い反応するの?」
「し、しないよ。勝手に体がビクビクしちゃって……」
「あら、そうなんだ。じゃあ、あかりの体が覚えちゃってるのかな」
あかりの体が覚えてる?
そう俺が聞こうとするが早いか、俺の肩を抱いていたゆうなの手がまた動く。
今度は俺のわきの下。
えっ、と俺が小さく驚きの声を漏らせば、もう片方のわきの下にもゆうなの手が潜り込む。
不意に過ぎったのは、今朝、ゆうなが俺のわき腹を執拗にくすぐってきた時の光景。
咄嗟にわきを締めてゆうなから逃げようと身をよじらせたが、ゆうなの行動は俺が予想していたものとは異なった。
「ぅわ……!?」
ふわりと、体が宙に浮いた。
俺の両わきの下に手を滑り込ませたゆうなは、まるで子供を扱うように俺のことを抱き上げたのだ。
細くあまり力のないようにしか見えないゆうなの腕が、これをやってのけていることへの驚き。
わきの下のゆうなの手以外、全ての支えがなくなった慣れない感覚による戸惑い。
ふと我に返った時には、俺はゆうなの膝の上に座らされていた。
背にはゆうなの温かな感触。
まるで大きめのぬいぐるみを抱く時の、ぬいぐるみ側の位置付けだった。
「……っ」
言葉が出なかった。
ただ息をのむだけで、俺は首を後ろに向ける。
視界にいっぱいにゆうなの顔があり、つまりそれだけ距離が近いということ。
それはそうだ。
俺からすれば体の背中側のほとんど、ゆうなからすれば体のお腹側のほとんどを互いに触れ合っている。
ゆうなに抱き抱えられている体勢で、距離が離れるはずなどない。
「ふふ、ビックリしてる顔も可愛いよ。こういう時、あかりだったら怒った顔になるから、あきらの反応は新鮮だよ」
小さく笑ったゆうなの吐息が首に掛かる。
ゆうなの頭は俺より少し上にあって、首を後ろに向けている俺の目と同じ高さにゆうなの唇がある。
緩い弧を描いたそれは赤みが強めの桃色で、距離が近いからか、とても大きく見える。
それがゆっくりと開き、鈴の音のような声が紡がれる。
「あきらって、男の時は私より背が高かったんだよね。だったらこうやって抱き締められるのって初めて? どんな感じ?」
からかうようなゆうなの表情を見れば、その問いは答えを求めていないことがわかる。
そりゃあ、こんなの初めてだ。
背中にはゆうなのおっぱいの膨らみがあり、背中越しにでもその柔らかさと下着のおうとつが手に取るようにわかる。
ワンピースを着ている俺は生足だから、ゆうなの履いているジーンズと触れ、硬い生地のごわごわとした感触が少し痛く感じる。
慣れない行為をされれば、慣れない感覚が俺を包む。
心の置き場を無くしてしまったように、落ち着かず、不安な気持ちになる。
「は……」
やっと出てきた俺の言葉は、
「離し、て……」
喉の奥からようやく絞り出せた程度の、酷くか細いものでしかなかった。