夜の来訪者も怖い
当然の疑問として、おそらくこの場にいる誰もが思う。
誰が来たのだろうと。
とりあえずの答えとして、俺はここからすぐ側にあるインターホンの受話器を取ろうと体を動かしたのだが、
「あきら、出る必要はないよ」
先ほどよりも幾分か強く体を押さえつけられ、動きを止められてしまう。
「こんな遅い時間に人の家を訪ねるなんて、いくらなんでも常識外れだ。こういうときは居留守をした方がいい」
聞き、たしかに納得するところがあった。
現状況で正確な時間を知ることはできないが、おおよそ夜も大分ふけているころだというのは推測がつく。
そんな時間に来訪があるなど滅多にないし、それを訝しむのも当然のことだ。
だがそれ以上に、ゆたかの発言には感じるものがある。
私の邪魔をしないでほしい。
そうした意図を、言葉端にピリピリと感じたのだ。
しかし、俺はこの来訪者をきっかけにしたいと思う。
この来訪者の相手をするという名分であれば今のゆたかの拘束を解くことができるだろうし、現状を少しでも変えられるかもしれない。
そうした目論見でゆたかを見上げ、目で訴えてみるのだが、
「ダメだよあきら。出てはダメだ。もし君を狙った悪い大人だったらどうする? 連れ去られてしまうよ?」
そこまで心配することだろうかと思う一方で、やはりゆたかは話の腰を折られたくないんだろうと感じる。
ならばと、ゆうなに助け舟を求めようと視線を向けるが、
「……」
目は合う。
けど、それだけだった。
口を真一文字に結んだゆうなは、ただ俺と視線を合わせてくれるだけ。
そこからは見受けられる感情ははっきりとせず、明確な意思を受け取れない。
ゆうな……?
疑問に思うのが早いか、ゆたかの声と共にその痺れるような振動が体に響いてくる。
「それよりもだね」
案の定話を戻そうと、かなり強引な切り出しだ。
だがそれを断つように、今度は別の音。
ノック音が響いてくる。
それはドアを拳の関節部分で叩いたような、力は弱くとも音の通る叩き方。
それを二回ワンセットという形で鳴らしてくる。
「……しつこいお客さんだね」
見上げれば、舌打ちでもするんじゃないかと思うほど不機嫌そうな表情が浮かんでいる。
よほど気に入らない割り込まれ方だったのだろう。
その表情に、向けられていないながらも恐怖を覚えるも、
「あきら君にゆたか君、いるんだろう? 居留守は実に良くないぞ?」
共に聞こえてきた声に、俺のみならずゆたかも驚いた。
その声が、菊地原先生の声だったからだ。
(な、何で……っ!?)
酷く混乱する。
菊地原先生がうちの場所を知っているはずがない。
そもそも今日、初めて会ったのだ。
会った当初はお互いに名前すら知らず、話したきっかけだってゆたかを通してのもの。
なのに、どうやってうちの場所が……。
「あきら君ー、ゆたか君ー? いることは室内の明かりの漏れからわかっているのだよー?」
「……先生、ですか?」
前に躊躇いの間を空け、外にも聞こえるよう声量を上げて聞くゆたか。
「おお、ゆたか君かね? 返事があって良かったよ。もしかしたら君たちの愛し愛される行為の真っ最中に訪問してしまったのではないかと心配していたところで――」
「んんーっ!?」
言葉が出せないことも忘れて声をあげてしまう。
な、何、人んちの玄関前で言ってるんだよあの先生はっ!
こんな静かな時間、ドアを隔てても聞こえるような声で、よそに聞こえないはずがないじゃないか……!
「……あ、あきら、先生を部屋に上げてもらえるかい?」
どうやらゆたかとこの気持ちを共有できたらしい。
許可を得て、ゆたかから解放されたところで俺は転びかけてたたらを踏むも、すぐに玄関まで辿り着く。
急いで鍵を開けドアを押し開けると、そこに一人の男性佇んでいた。
すれたように古びた紺色の上下スーツに、よれた赤いネクタイ。
それらが包む、腹回りがふくよかすぎるシルエット。
そのいかにもすぎる中年男性らしさこそ、菊地原先生の特徴だった。
「やあ、あきら君。ゆたか君とのセックスは楽しめたかい?」
「んな……!」
右手の平を上げ、決して爽やかとは思えない笑みを向ける菊地原先生の開口一番に絶句してしまう。
しかし固まる俺も何のその、菊地原先生は「失礼するよ」と一言のたまい、俺を押しのけ部屋に上がってくる。
俺がその行動に理解が追いついたのは、菊地原先生が革靴を脱ぎ、フローリングの床をその体重で軋ませてからだ。
慌てて菊地原先生の背中を追うも、先にゆたかを見つけた菊地原先生が口を開く。
「やあ、ゆたか君もどうだったかね? 無事にレズビアンが何たるかをあきら君に教授できただろう――おや?」
ようやく俺が菊地原先生の横に並んだとき、疑問の声があがる。
菊地原先生の視線の先はゆうな。
見られたゆうなは、驚きとも軽蔑とも取れる表情を見せているが、
「君は……ゆたか君、もしかして3Pかい? もしかして3Pであきら君に教授していたのかい?」
途端、空気が凍る。
それは気まずいなんてものじゃない。
空気の鋭さだけで肌が切れそうな、原因でない俺でさえ動悸が上がってしまうほどの凍てつき。
だが張本人は気にも留めないように、しかし興奮度合いを上げながら続ける。
「ゆ、ゆたか君、そういうことなら何故私に一言もなかったのかね? 驚きだよ、サプライズだよ。しかし私に知らせてほしかったよ」
頬が引きつるのがわかる。
追いつけない、そして理解しえない空気がどんどん凝固していく。
先ほどまでの空気は払拭された。
というよりも壊された。
この、いきなり暴走しちゃってるセクハラオヤジのせいで、もはや原型も残らないほど粉々に。