別れましょう
「う、浮気なんて……」
「してないって言うの? この状況で?」
怒りと憎しみ。
感情をそのまま乗せたようにゆうなは言って、視線を巡らせた。
見る先はゆたか。
バスタオル一枚を体に巻くだけの、長身のその人を。
「あかりに好意を寄せている人が、そのあかりの家で裸になっているなんてどう考えても」
「ちょっと待ってくれないか」
ゆたかが制止に入る。
「たしかに私はあかりが好きだ。友人としてもそうであり、恋愛の対象としても好いている」
「あら、目の前で告白?」
「そうじゃないよ」
腕を組むゆうなに対し、ゆたかは首を振る。
「私があかりをそういう目で見ていたのは認める。けど、それと今とは関係ない。私はただお風呂を借りにきただけ。そう言いたいんだ」
すっ、とゆたかは俺とゆうなの間に割り入る。
さも俺を匿うような態度で。
それを見て、ゆうなは怪訝そうに眉をひそめる。
「お風呂を借りにきただけ、ねえ」
「ああそうさ。事情は先に話した通りだ。だから浮気なんて濡れ衣は――」
「嘘ね」
言葉を紡ぐゆたかに被せるように、ハッキリとゆうなは告げた。
「そんなのは嘘。大方、咄嗟に考えた言いわけなんでしょ?」
ごくり、と喉を鳴らす音が前方から聞こえてきた。
その主は探るまでもない。
ゆたかは躊躇いがちに口を開き、一度閉じる。
一呼吸分の間を空けて、再度開いた。
「どうして、君は嘘なんて言うんだい?」
ゆたかの緊張感が手に取るようにわかる。
体が触れ合うほど近くにいるためか、同じく追い詰められた状況にあるためかどうかはわからない。
が、この肌をチリチリと焦らすような感覚は……。
「私はお風呂を借りにきた、と言っている。私があかりに好意があったのは認めるよ。そんな私がいるのだから疑う気持ちはわからないでもないけど、それを頭ごなしに嘘と決めつけ、汚名を着せるのかい? 証拠もないと言うのに――」
「あなたたちの動揺が、何よりも動かぬ証拠」
端的に告げるゆうなの言葉に、鼓動が跳ね上がる。
「そ、そんな憶測――」
「なんてね。それだけなら、そうね、あなたの言うとおりただの憶測よ。……でも、それだけじゃないから言えるのよ」
「……どういうことだい?」
一歩、ゆうなはゆたかに歩み寄る。
それほど広くない、この脱衣場にただならぬ圧力を加えて。
「菅原さん。あなた、着替えはどこにあるの?」
はっとした様子で、ゆたかが背後にある自分の脱いだ服を見る。
「まさかそこにある脱いだ服が着替えなんて言わないでね。お風呂を借りにきた人が、着替えを準備してこないはずないもの」
また一歩、ゆうなは歩み寄ってくる。
「――違う?」
膝から崩れ落ちそうな感覚に襲われた。
「そ、それは……」
ゆうなに迫られたゆたかは、動揺に身を退かせる。
一歩下がり、俺の体とぶつかったが、気に留める余裕もない。
「も、元は借りるつもりなんてなかったんだ。でも大学で事情を説明したら貸してくれることになった。だから着替えなんて準備してなくて……」
「よく口が回るのね。まるで嘘の上塗りに必死みたいよ?」
それはゆたかを侮蔑するような言い方だった。
「そ、そんなことは……」
「まあ、あなたの言うことが本当だったとしましょう。そこまで言われると、私も確かめようがないわ。そのときの証拠を見せろって言うわけにもいかないし。でも――」
そこでゆうなは視線の先を変更。
俺へ、睨む先を変えてくる。
「あかり。あなたの嘘があるのよ」
――あかり。
ゆうなは俺をそう呼び、横に一歩ずれる。
そうして俺との間を挟むゆたかから避けると、こちらに踏み出してきた。
手を伸ばせば触れられる距離にゆうなが迫る。
「シャワーを止めに行く。さっき、そう言ったよね?」
ドキリ、と心臓が跳ねる。
「どうして?」
「そ、それは……」
「あなたは人が浴びてる最中にシャワーを止めに行こうとしたの? それとも――」
俺が口を挟む隙もない。
続けざまにゆうなは言う。
「その場しのぎの嘘を、私についたの?」
ただ見下ろしてくる冷たい視線。
俺は、それを一心に浴びるしかなかった。
「おかしな話よね。人が浴びてる途中のシャワーを、本人の意思なく止めに行くなんて。ありえないわ」
言って、ゆうなは鼻で小さく笑う。
「それこそ慌てて判断力が欠けていたならまだしも……もしそうなら理由を聞くわ。どうしてそんなおかしなことをしようとしたのか、ちゃんとした理由をね」
チラリ、とゆうなは視線を、俺から見て右に流す。
その先にはゆたか。
だが、ゆたかは身動き一つ取れない。
――ゆうなが取ることを許さない。
それを見届け、またこちらを向く。
「私に嘘をついたの? 先に温めておくために流していたシャワーを止めに行く、なんて安易な嘘を」
また一歩、ゆうなは近づいてくる。
もうほとんど距離もない。
抱き合う手前。
キスをする直前。
そんな至近距離に、ゆうながいる。
けど、
「さあ、あなたはどんな言いわけをするの?」
ゆうなは腰を屈める。
身長の低い俺に目の高さを合わせて、そっと撫でるような手つきで俺の右頬に触れる。
ゆうなの顔が、鼻先が触れんばかりに近くて……、
「嘘をつくなら好きにして。そしたら、私は二度とあなたを信じられなくなる」
その言葉に、悲壮の色を感じた。
……圧倒的だった。
何も言わせない。
何も言葉を挟ませない。
ゆうなの迫る態度には、いちるの隙すら見当たらない。
わかっているのだ。
彼女には、現状における全てのことが。
ゆたかが咄嗟に考えてくれたアドリブも。
俺がついてしまった嘘についても。
――俺たちが、何をしようとしていたのかも。
だからゆうなは、こんなにも強く言える。
疑ってかかるでも、怒りに狂うでもなく、真実を追及してくるんだ。
「あかり」
あかりの名を呼び、真っ直ぐゆうなに見つめられる。
息がかかるほど近い。
近いからこそ、見透かされる。
心を丸裸にされてしまったような、頼りなさと羞恥を感じる。
(……ダメだ)
今さら何を言っても意味を成さない。
どんな嘘をついても、悪い方向にしか働かない。
(もう……終わった……)
頭の奥から、ゆっくり思考が止まっていく。
凍結していくような、石化していくような。
沼に足をとられたとばかり、身動きできずに沈んでいく。
「こんなときでも、あなたは泣き虫なのね」
頬に一筋、冷たい雫が流れ出る。
それは一つにとどまらない。
次々と、決壊したように溢れ出してきた。
嗚呼……泣いている。
俺は今、泣いている。
声をあげなくても。
泣き崩れなくても。
ただ涙を流して泣いている。
……この体は泣き虫だった。
今日の深夜、ゆうなに怒られたらいつの間にか泣いていて。
昼間、ゆうなと気まずくなったら泣きそうに目頭が熱くなって。
元の俺からは信じられないくらい涙もろくなっていた。
けど……打ちひしがれたときには泣かなかった。
大学の最寄り駅でゆうなと喧嘩して置いて行かれたとき。
ゆたかに「元の世界に戻れない」と言われたとき。
打ちひしがれる悲しみよりも絶望が強くて。
泣くことなんてまるで考えられないくらい気落ちして……。
なのに、今の俺は泣いてしまっている。
ゆうなに俺のついた嘘がバレてしまって。
その嘘がどんな結果をもたらすのか、想像ついてしまっているのに……。
打ちひしがれていないのか?
それほど堪えていないのか?
……違う。
比べものにならないんだ。
これから降りかかるであろう結果に。
堪えきれなくて泣いているんだ……。
「本当……私、こんなの望んでなかったのに」
ボロボロと流れ落ちる涙を含め、ゆうなは俺の頬を撫で上げる。
悲壮を色濃くしたゆうなの目を見つめる。
言葉を紡ぎ出したいのに、唇はわなわなと震えている。
――聞きたくない。
ゆうなが続けるであろう言葉を、聞きたくない。
聞いたら、終わってしまう。
終わってしまうから、聞きたくない……。
耳を塞ごうと上げた両腕を、ゆうなは優しく掴む。
「聞いて」
先ほどまでのそれとは一転して柔らかい口調。
それでいて、確固たるものが伝わってくる。
掴まれた両手首が、キュ、と強く握られる。
「私は今でもあかりのことが好き。何にも代えられないくらい愛してる」
ゆうなは目の前にいるのに、視界が滲む。
溢れる涙が、視界をぐちゃぐちゃに破綻させていく。
「でも……裏切ったあなたを許せない。裏切りを欺こうとしたあなたが、すごく憎い」
見つめ合っているのに、それがわからなくなる。
体の芯から冷たくなって、小さく震えてしまう。
「だから――」
――聞きたくない。
「私たち、別れましょう」
聞きたくなんて、なかったのに……。