ピンチは急に現れる
……って、さすがにこれはないか。
あかりの容姿を使ってぶりっ子してみたが、いかんせん初めてが原因かそもそも男の俺には無理なのか、結果としてイマイチだった気がする。
というかやった本人として恥ずかしすぎる。
(女から男を誘うときって、こんな気分なんだろうか……)
なんてことを思って、ゆたかを脱衣場に押し込む直前。
「っ……!」
ふと、背中を押す手にぶるっと小さな震え。
元凶は、ゆたかの背中。
何事かと見上げると、ゆたかがこちらに血走った目を向けて――
「あか、あかあか、あかあかあかあかあかあか……っ!」
オーバーヒートしてらっしゃるっ!?
それはまさに暴走モード。
頬を真っ赤に染め、手を指をわきわきしならせて迫――
「う、うわぁあっ!」
脱衣場に突き飛ばす。
思いのほか軽い手応え。
見送る暇もない。
脱衣場の扉を閉めるのは、次の一瞬。
バタンと激しく扉を叩きつけ、背を扉に預ける。
そのままずるずると、開けられることのないように座り込んだ。
「あ、危なっ……!」
し、死ぬかと思った……。
襲われるどころか食い殺されそうな勢い――
「あかりぃ! 今、今会いに行くからねえっ!」
「ひっ……!」
扉をガリガリ爪でかくなあ!
ホラー!
これ、めちゃくちゃホラーなんですけどお!
*
俺は脱衣場の扉に背中を預けて座り込み、ゆたかは爪でカリカリ、カリカリと求めるように内側から扉をかき続けることたっぷり十分強。
諦める気になってくれたのか、ようやく中からシャワーの流れる音がし始めた。
それを聞き、嘆息を漏らす。
「やっとかあ……」
長かった……。
携帯電話で確認したから経過した時間がわかったが、体感はそれ以上。
一時間近く背中で扉を押さえていた気さえする。
しかもその間、
「あかりぃ……あかりぃ……」
うわごとのような、呪詛のようなゆたかの呟きをひたすら聞き続けたのだ。
精神をすり減らすというのはこういうことなのだろう。
生命の危機というか、性的な危機というか。
ある種のホラーに直面するとは思ってもみなかった。
だから、
「逃げちゃおっかなぁ……」
そんなことを思ってしまう。
この部屋にゆたかを一人残して……なんてことも考えたくないけど。
「はあ……」
小さく嘆息して膝を抱える。
そこに顎を乗せて、目を閉じる。
考えるのは、さっきのこと。
(ゆたか、俺のこと「あかり」って言ってたなあ……)
やっぱりゆたかから見れば、俺はあかりの姿なんだろう。
それはそのはず。
今の俺は人格だけがあかりの体に入っているだけなのだ。
加えて、ゆたかやゆうなが言うには、性格まである程度似通っていると言う。
そこまで条件が揃っているのなら、間違えるのだって無理はない。
例え、事情を理解してくれているゆたかだとしても、だ。
それがあの暴走モードともなれば、判別つかなくなるのも仕方ない。
けど、やっぱりどこか寂しい気持ちもある。
呼ばれる名前は俺ではなく「あかり」。
それがなんとも言えない焦燥を駆り立てる。
俺のいない世界。
それを再確認させられた気がして。
(でも、頑張るしかないんだよな)
この現状をなんとかするために、俺は動いているんだ。
ゆうなから原因を探るためにレズビアンについて知る必要があって。
それを知るために、こうしてゆたかを俺の家に呼んだ。
だから気合いをれてゆたかと――
その時だった。
部屋の鍵が開けられる、ガチャガチャという音がしたのは。
その音にぎょっとして玄関先に目を向ける。
驚くと同時に、デジャブ感。
これと同じことが夜中にあった気がする、と思うのと同時。
鍵の回りきる音と間もなくして開く扉。
この家の鍵を開けるという行為。
それを正当にすることができる人間は数少ない。
そして現状、それは一人しかいないわけで――
「……う、そ」
「あ……」
一つは俺の呟き。
もう一つは、驚いた様子の彼女のもの。
玄関のドアを開けて入るなり俺と目が合い、気まずそうにする彼女。
――ゆうな。
その人が俺の家の玄関を開けた人物。
「ゆ、ゆうな……?」
栗色の柔らかい髪。
女性としてやや低めの身長に、物腰柔らかい印象を受ける彼女。
何一つ疑うこともない、正真正銘のゆうなだ。
そのゆうなが……玄関先にいる。
俺の家の玄関先、ドアを開け放って佇んでいる。
喧嘩しているはずのゆうなが、どうして……。
「ど、どうしてゆうながうちに……?」
困惑の一色を示す脳内から口をつくのはそれだけで。
ただ渇いたように張り付く喉がいがつき、たったの一言もどもらせた。
視線が、ゆうなのそれと合致する。
玄関先に佇む彼女は、ただ気まずそうに眉尻を下げる。
「その……謝ろうと思って」
……驚いた。
いや、驚く感情なら彼女が登場したときから渦巻いている。
けど、そうじゃない。
驚き、困惑し、疑問湧く今。
ただ、今のゆうなの言葉がひたすらに響いた。
「えっと、ごめんね。私がどうかしてたの。あんなところで怒るなんて……」
「い、いや……」
信じられない。
今起こっていることが信じられない自分がいて。
信じたい。
目の前にいるゆうなの言葉をそのまま受け止めたい自分もいて。
どちらが強い弱いでもなく、ただ渦巻くようにせめぎ合う。
混乱。
そう、俺は混乱していた。
「ゆうな……なんだよな?」
「うん?」
混乱する気持ちばかりが先行して、自分がおかしなことを聞いてるのはわかっている。
けど……こんなの、確認せざるを得ない。
「俺、今、ゆうなに会ってるんだよな……?」
ゆうなは柔らかく微笑む。
「うん。今、私と会ってるよ」
ああ……ああ、そうか。
じわり、じわりと認識していく。
俺は、ゆうなに会えた。
仲違いしていたゆうなとこうして会えて、話をしている。
それは酷く難しいことだと思っていた。
何とかして元の世界に戻る方法を見つけ出して、喧嘩してしまったゆうなに必死にそれを説明して。
そうして信じてもらえて、いや、元の世界に戻れてこそ、ようやくそこにまで至れると思っていた。
けど……こうしてゆうなに会えた。
ゆうなから俺に会いに来てくれた。
本来なら俺からゆうなの元へ行かなければいけないはずだったのに。
それなのに……。
「ゆう、な……」
声が震える。
名前を呼ぶだけの声が、震えてしまう。
けど、それは歓喜だ。
他の何物でもない、歓喜に震えているのだ。
体の芯から溢れる感情に、ゆうなに目を向けて――
……どうしたことだろうか。
何故かその時、俺は感じてしまった。
ゆうな……いや、ゆうなが俺の家を訪ねてきた違和感を。
(何で、違和感なんか……)
これはもっと喜ぶべきことのはずだ。
ゆうなが俺と仲直りをするために、わざわざ俺の家まで出向いてくれたんだ。
それを喜びこそすれ、何故違和感など……。
もう一度、認識し直す。
今、ゆうなは俺の家の前にいる。
場所は玄関先。
靴を履いたまま上がる気配を見せず、ただ反省の色に染まった表情をこちらに向けている。
謝るという行為を考えれば、その表情に何ら不思議はない。
対する俺は、膝を抱えて座ったまま。
ゆうなのいる玄関とは少し離れるも、そちらを見れる脱衣場の前で――
(――脱衣場?)
はっ、としてそちらを向く。
あるのは脱衣場の扉と、隙間から漏れる中の明かり。
そして、聞こえるシャワーから流れ出る水滴が弾ける音。
ゆたかが中にいる。
中にいて、シャワーを浴びている。
当たり前だ。
俺がゆたかを押し込んで入らせたのだから、いなかったらおかしなことになる。
でも……もっとおかしいのは、今の状況で。
ゆたかがシャワーを浴びている最中に、ゆうなが俺の部屋に来ている。
いや、正確にはこうだ。
ゆたかとセックスしようと準備しているところに、彼女のゆうなが訪問してきた。
いわゆる浮気現場。
それに今の俺があるのだと、気が付いた。
「? どうしたの?」
「やっ!」
思わず上擦った声に、慌てて咳払い。
「な、なんでもないよ、うん」
「そう? なんか焦ってるように見えるけど……」
「そ、そんなことないよ」
明らかに訝しげな様子のゆうなから視線を逸らして、首を振る。
……どうしよう。
先ほど感じた違和感はこれだった。
一番ゆうなと遭遇してはいけない状況。
それに、ものの見事にゆうなが訪ねてきたのだから。
しかし……どうしたらいいというのか、この状況。
目の前には昼間のことを謝りにきてくれたゆうながいて。
風呂場には、今まさにシャワーを浴びて悶々しているであろうゆたかがいて。
板挟み。
これは……まずい。
どう考えてもまずい。
ゆうなが謝りに来てくれるという、こんなにも望んだ状況。
それが繰り広げられているというのに、壊されかねんとしているのだ。
中にいるのが普通のゆたかだったらいい。
その場で状況を察して対応してくれるだろうと思う。
けど――
「あれ? シャワーの音?」
これは、どうしたらいいのだろう。