あかりという人間の性的嗜好
「……え?」
ゆたかの表情とのかみ合わなさに、思考が少しの置いてけぼりを食らう。
「あかりの返事がそれなら、良かったんじゃないの?」
酔い任せとはいえ、告白して、承諾を得たのだ。
それに嘘がなければ、ゆたかは喜ぶはず。
なのに、ゆたかの表情は変わらない。
「私も最初は喜んだよ。片思いから昇華したんだ。喜ばないはずがない」
でも、とゆたかは挟む。
「でも、それは最初だけだった。話を続けていくうちにわかったんだ。あかりの言った「好き」は恋愛じゃない。友達としての「好き」だったんだ、って」
「……ああ、そっか」
好きの意味が違った。
ゆたかは恋愛感情での好きだったけど、あかりのそれは違ったということ。
――友達として。
そういう意味だったから、ゆたかはこんなにも困った笑みを浮かべているんだ。
「でも、よく考えてみれば当たり前だよね。私は女で、あかりも女。同性間の「好き」は、当たり前のように「友達として」なんだから」
まあ、そうだろう。
俺が男に好きと言われても、とても恋愛感情としては考えられない。
悪く取ってそいつがゲイだと避けるか、良くても友達として。
酒の席で、ゆたかはさりげなく告白したと言っていた。
なら、俺だったら後者だろうと踏む。
または前者に似せた冗談だろう、とでも。
「あかりがビアンだったら、受け取りようが変わっていたんだろうけどね」
「……はい?」
過去を後悔するように、ぽつりと言ったゆたかの言葉に首を傾げる。
あかりがビアンだったら。
それが、俺の胸に引っかかりを覚えさせた。
あかりがレズビアンだったなら。
そう、ゆたかは仮定した。
とすると、あかりはレズビアンではない……?
握られている両手を小さく振り、呼び掛ける。
「あかりって、レズビアンじゃないの?」
「あれ、あきらは知らないのかい? あかりがビアンになったのは最近のことだよ」
俺が知らなかったことを、さも意外そうにゆたかは言う。
「で、でも、あかりはゆうなと付き合ってるし」
「ああ、ちょうどそのころだよ。あかりがビアンになったのは」
あかりは、少なくともゆたかと知り合った一年のころは異性愛者だったらしい。
格好も普通の女の子のそれで、今のようなワンピースも好んで着ていたと言う。
直接異性愛者かどうかを確認したことはないそうだが、立ち振る舞いで見る限り、レズビアンとは思えなかったとゆたかは語る。
だが、三年の六月ごろ。
梅雨に入るかどうかという頃合いに、あかりは変わった。
言動と服装の、それぞれが徐々に男っぽくなっていったらしい。
一人称を「あたし」から「俺」に変え、それまで少女趣味だった服装を、男物に一変させた。
その様子を不審に思ったゆたかは、あかりに何があったのかを聞いたところ、
『俺、彼女できたんだよ』
高く幼さの残るその声に似合わぬ口調で、あかりはそう言ったらしい。
「あかりはビアンも許容できる“異性愛寄りのバイ”だったみたい。それが、ゆうなの告白で目覚めたんだと思うよ」
「そんなことがあるの?」
「うん。多いわけではないけど、そうやって同性愛者になるケースもあるみたいだよ」
異性愛者から同性愛者へ。
いや、ゆたかの言い方では、両性愛者へ、か。
そんなことがあるのか……。
俺は異性愛者で、同性に対して恋愛感情たるものを覚えたことは一度もない。
根っからの異性愛者、というやつだろうか。
そのためか、そのあかりの変貌は、とてもじゃないが理解し難いものがある。
「ちなみに、私はバイ寄りのビアン。女の方がいいけど、男でも大丈夫ってケースでね、昔は彼氏がいたこともあるよ」
「そ、そうなの?」
「うん。だから、こうして中身が男だってわかってるあきらにも普通に接することができてるんだよ」
「はあ……」
なんだろう、よくわからなくなってくる。
あかりは、元は異性愛者だったけど、ゆうなに告白されてレズビアンに。
ゆたかは、基本的にはレズビアンだけど、男が嫌いってわけじゃない。
異性愛。同性愛。
そして、両性愛。
大きくカテゴライズされているけど、その境界は非常に曖昧で。
その内の一つしか知らない俺からすれば、ゆたかの話はすごく遠いものにしか思えないものだった。
ふと、ゆたかが思いついたような表情。
「そうだ、せっかくだしそのあたりも詳しく話しておこうか。これも、あきらがレズビアンを知るために必要なことかもしれない」
続けるね、と言うゆたか。
「あきら、「ストレート」って言葉の意味はわかるかい?」
優しく問うゆたか。
恐らく単純な意味ではないだろうと思い、俺は首を振る。
「その気がない人、つまり同性愛者ではない人のことだよ。「ヘテロ」や「ノンケ」とも言うね。私がビアンなら、あきらはストレート。そういう呼称になるんだ」
混ざりっ気がない。
そういう意味合いでストレートと言うそうだ。
「これは補足だけど、異性愛を「ノーマル」と呼ぶのは、同性愛に対しての差別表現だから気をつけてね。さっき言ったレズという言葉と同じように、言わないようにしてくれるかい?」
「う、うん、わかった」
俺が頷くと、ゆたかは満足そうに笑った。
「そこらへんの話題はすごく繊細だからね。ストレートのあきらには、あまり理解できない領域かもしれない」
ゆたかは俺の両手から手を離し、俺の手の甲を軽く撫でる。
目を伏せ、言葉を続ける。
「細分化すればいくらでもパターンがあるからね。先天性、後天性。環境による一時的なものや、男性・女性恐怖症からの場合、性同一性障害が絡むこともある。その全てを理解するのは、私でも不可能だよ」
「そういうものなのか……」
そこまで言われると、本当によくわからなくなってくる。
言われたことがどんなものか、大体はわかる。
先天性などの意味もわかるし、性同一性障害もテレビで見たことがある。
でも、それを理解しているかというと、答えは限りなく否。
あかりやゆたかのケースも理解しきれないのに、そんな途方もない数を理解できるはずもない。
ストレートの俺にはあまり理解できないかもしれないとゆたかが言ったのは、きっとこういうことなんだろう。
「こういうことは理屈じゃない。本人がそういうものだと思う感性で成り立つものなんだから、頭で考えちゃダメなんだ」
「頭で考えたら、ダメ?」
俺が首を傾げると、ゆたかは頷く。
「うん。例えば、どうしてあきらは自分のことをストレートだと思うんだい?」
「どうしてって……」
ゆたかに言われ、考えてみる。
俺が自分自身を異性愛者だと思う、その理由。
「えっと……男よりも女の方が好き、だから」
「じゃあ、どうしてそう思うんだい? あきらは男性とそういう関係を持ったことがないよね? 想像だけで、男はダメって決めつけているのかい?」
「まあ、想像だけになるけど……」
「なら本当にダメなのかわからないよね? もしかしたらバイである可能性もある。そうは思わない?」
「え、えっと……」
俺が両性愛者……?
……想像もできない。
「はは、困ってるね。ごめんごめん。でも、感性っていうのはそういうことなんだ。少しはわかったかい?」
そう笑うゆたかの表情は、なんだか楽しそうに見えた。
「中には自分の性的指向を把握している人もいるけど、大概はそうじゃない。「そういうものだ」って、頭じゃ理解できないところで理解している人が大多数なんだ」
俺も、恐らくはその内の一人なんだろう。
自分が異性愛者であることに微塵の疑問も抱いたことは一度もなかった。
それが普通だと思って、深く考える機会もなかったんだ。
だから、こうして考えてみると、よくわからなくなる。
俺は、どうして異性愛者なんだ?
生物的にオスとメスがくっつくのが当たり前だから?
だったら、何で同性愛なんてものがあるのだろう。
両性愛者になる理由だって、なくなるはずだ。
なのに、数は少なくともその二つはたしかにある。
俺の目の前に、こうしてゆたかがいる。
自身をバイ寄りのビアンと称する彼女が。
なら、どうして俺は同性愛者でも、両性愛者でもないのだろうか。
それが当たり前、と言ったら失礼なことなんだろう。
異性愛者を「ノーマル」と呼ぶのは、他への差別になるとゆたかは言っていた。
つまり、異性愛を普通と呼べば、他が異端ということになる。
それを差別だと、ゆたかは言ったのだ。
それはそうだろう。
自分が普通じゃない、異端である、と言われて、どうも思わないはずがない。
だから、異性愛が当たり前なんて言い方は、すごく失礼に値する。
それは、わかってる。
けど……他に表現のしようがない。
俺の中ではそうだったんだ。
異性愛者であることが、俺の当たり前だって。
「――当たり前、かあ」
「う、うん」
俺が先ほど思ったこと、その丈をゆたかに告げての反応。
言い方が差別に近いことはわかっている。
けど、そう思っていたのは事実だ。
だから、怒られる覚悟で言ってみたのだが、
「私もそう思ってるよ」
「……へ?」
想定外の返しに、少し声が裏返ってしまう。
「ずいぶん意外そうだけど、私もそうなんだ。自分がビアンであることを当たり前に思ってるよ。男性と付き合っても大丈夫なのは、自分のストライクゾーンが広い、って言い方にしているしね」
「す、ストライクゾーンっすか……」
両性含むなんて、ずいぶんと広い範囲で……。
「でも、そんなものだよ。改めて聞かれると困ってしまうことばかり。それはきっと、みんなそれが当たり前だと思っているからなんだ」
「なるほど……」
俺とゆたかには性的指向の違いがある。
が、その根底は一緒。
自分の恋愛対象に対して深く疑問を持つことなく、それはただの当たり前。
当たり前と思うからこそ、自分はその性別に恋愛ができるのだと、ゆたかは言った。
「好きというのは結果でもあり、理由でもあると私は思っているんだ。さすがに思春期の時は悩んだけどね。男の子が嫌いなわけじゃないのに、好きな子は女の子ばっかり。こんなの変じゃないか、って」
それはもう過去のことなんだろう。
ゆたかの告げる独白は、良い思い出を語るような軽さがあった。
「でも、気が付いたときにはそうだったから、今更変えることなんてできなかった。女の子が好きなのは変わらないし、男の子と付き合っても全く不快じゃない。そんな自分を認めてからは楽だったよ。そういうものなんだ、これが私の当たり前なんだ、って」
一息吸って、ゆたかは微笑む。
「普通かどうかを考えるんじゃない。自分の中での当たり前は何なのか。それが自分の性的指向だと、私は思うんだ」
――当たり前。
俺の言葉がそんな風に使われて、ああこれで良かったのか、と安堵した。
「だからかな、あかりみたいに潜在的な性的指向があるのは」
言ったゆたかは、眉尻を下げて笑う。
「本人が当たり前だと思ってる性的指向は、あくまで想像に過ぎない。さっきあきらに聞いたろう? もしかしたらバイになる可能性があるんじゃないか、って」
「うん、言った」
俺が異性愛者を当たり前と思っているのは、男との経験がないから。
試していないのだから、異性愛者であることは、あくまでも想像した上でのこと。
もしかしたらバイになることも、万に一つはあるかもしれない。
そう言っていたのを思い出し、頷く。
「そういうものは、聞くところによると、何かきっかけによって覚醒するケースが多いんだ。あかりの場合は、たぶんゆうなに告白されて目覚めたんだと思う」
「あー、なるほど」
今まで異性愛者だったあかりが、レズビアンとして目覚めたのだ。
それを強烈に意識させられる出来事があったはず。
例えば、ゆうなに告白され、それを受け入れた自分がいたら。
それまで異性愛者だと思っていた自分が同性からの告白を受け入れたのだから、認識せざるを得ない。
自分は、両性愛者なんだと。
「だからね、私は悔しいんだよ」
口を真一文字に結び、少しの間。
ゆたかは口惜しそうに語る。
「飲みの席でさりげなく、なんて自己防衛をする姑息なやり方なんてしないで、きちんと告白していたら、私があかりを目覚めさせられたかもしれないのに」
さぞかし悔しいことだろう。
もし、ゆたかが先に告白していれば結果が違ったかもしれないのだ。
だから、ゆたかは悔しがって、
「ああ、あかりとイチャイチャしたかったなあ」
身をくねくねするなよ……。




