世界膜とミステリースポット
――制限時間。
菊地原先生が話すのは、一つの可能性。
もしもの場合だった。
そもそも、どうして俺は平行世界の間を移動できたのか。
誰がしたとか、その理由とかではない。
方法。単純に、どのようにして移動できたのか、ということだ。
それについて、菊地原先生はこう語る。
『世界は完璧なものではない。時に歪み、それを直さんと動く巨大な細胞のようなものだ』
世界には、膜のような全体を覆うものがあるのだと、菊地原先生は言う。
それは数え切れない幾多の平行世界同士を阻む壁。
一つ一つの選択によって切り分けられた世界は、まるで何かの細胞のよう。
例えば、この地球を細胞核と仮定する。
それは世界を構成する源。
DNAを所有し、細胞全体、ひいてはその生物そのものを左右する重要な部分だ。
もしも、という可能性で世界を分岐しているのだから、これに当てはまるだろう。
このもしもがあるから、まるで細胞分裂のように世界が増えるのだから。
次に、そこを包むようにあるのは、細胞で言うなら細胞質。
宇宙だ。
もしもを生み出す地球を核としたとき、包む側にあるのは宇宙であり、細胞質同様、核にとってなくてはならないものである。
細胞質がなければ細胞核が存在し得ないように、地球もまた宇宙ありきの存在なのだから。
そして、それを一個としてまとめるのは細胞膜。
先に述べた、世界を覆う膜のようなものがそれの同義にあたる。
便宜上、菊地原先生はこれを「世界膜」と呼んでいるようなので、俺もそれにならう。
この世界膜、こうして新たに言葉を作るように、決して認知されているものではない。
目に見えるかどうかの問題ではない。
その存在があまりにも大きすぎるために、把握のしようがないのだ。
宇宙をも包む巨大な膜なのである。
これを巨大と言わずに何と言おう。
故に矮小な存在たる人間がそれを認知するなど、ありえないのである。
しかし、それはたしかに存在する。
何故なら、それが宇宙にとって不可欠な存在だからだ。
と言うのも、宇宙だけではあまりに不安定すぎるから。
例えば細胞質が単体で存在していたとしたらどうなる?
答えは単純だ。
何も支えてくれるもののない細胞質は、ただ壊れてしまう。
それだけなのである。
細胞膜とは細胞質、そして細胞核を守るための防壁。
それを無くしてどうして存在できると言えるのか。
あらゆる細胞にその三つの要素が備えられている点からも、この考えはあながち間違ってはいないだろう。
つまり、宇宙は単体で存在することができない。
細胞膜と同じ役割である世界膜に包まれることによって、初めて存在できるのだ。
故に、例え見えずとも、世界膜はたしかに存在すると言える。
さて、こんな表現を聞いたことがあるだろうか。
『細胞とは小さな宇宙である』
まさにその通りなのである。
細胞とは小さな宇宙の模型のようなもので、調べれば調べるほど共通項は多い。
先に述べた点だけでも、十分な共通点と言えるだろう。
未知なところが多い点も、その構成においても――
というのが菊地原先生の話。
「時間があれば、もっと話せるのだが……」
そう菊地原先生は口惜しそうに言っていた。
俺的には熱く語られすぎたせいで、話の半分もわかれば良い方だけど……。
さて、話を戻そう。
――俺がどうして平行世界間を移動できたのか。
これには、世界膜の存在が関わってくる。
先に述べたように、世界膜とは、平行世界同士を区切る壁のようなもの。
平行世界が、隣接する世界と交わらないようにするためである。
イメージ的には、先と同様に細胞を考えてもらえばわかりやすい。
細胞単体ではなく、複数で。
単体の細胞が寄り添うように集まっている様子。
それが世界にも共通する。
もし俺が存在しない世界だったら?
もし俺が事故に遭ったら?
それらの可能性が生まれる度に、まるで細胞分裂のように、新しい世界が生まれると言う。
故に世界は複数集まり、隣接する。
だから平行世界間の移動には、その壁である世界膜が影響してくるのだ。
そう菊地原先生に説明され、なんとか薄くでも理解できた部分から湧いてきた疑問に、俺は手を上げる。
「それってつまり、俺は世界膜を通り抜けて移動したってことですか?」
「簡単に言えばそういうことだね」
菊地原先生は頷いた。
「その世界膜には、時折歪みが発生することがある」
「歪み?」
「そうだ。細胞壁ではなく細胞膜と例えるくらいだからね。その形は一定ではなく、常に変化している。故に偏り、歪みが生まれることがあるんだ」
ええと、と考えてみる。
世界は膜で包まれている、と言っていた。
菊地原先生は細胞で例えていたけど……うーん、ちょっとわかりにくい。
水風船で考えてみても平気だろうか。
風船のゴム部分が膜で、中の水が世界にあたるところ。
膜は風船だからいくらでも変形するけど、その収縮によって膜の薄い部分、厚い部分ができる。
それが言っていた歪み……という感じかな。
そう菊地原先生に聞くと、首を縦に振ってくれた。
「語意に多少の違いはあるがね。君がわかりやすいなら、そう考えてくれても構わないだろう。大まかな把握はできているようだし」
把握しきれているかどうかは微妙だけど……。
とりあえずこれでいいようなので、頷いておいた。
「そして、重要なのはその歪み――君で言うなら、風船の薄い部分だね」
膜の薄い部分。
そこが重要と言われ、はっと気がついた。
「その薄い部分を、俺が通ってきたんですか?」
「その通りだ」
一度の頷き。
「世界はその形を変えていく上で、稀にその膜が非常に薄くなってしまう箇所がある。それは平行世界の影響を最も受けやすい場所。呼び方は様々だが、私はそこを「ミステリースポット」と呼んでいるよ」
――ミステリースポット。
そこに、
「ミステリースポットというのは、非常におかしな現象の起きやすい場所でね。昔から、不可思議なことが起きた場所にはミステリースポットが存在していたのではないかと私は考える。例えば、君のように平行世界間を移動する人間がいたり、ね」
そこに、俺がいた?
「単純なことだよ。君のいたミステリースポットは、人間の精神が通れるほど世界膜が薄くなっていて、そこに君の精神が吸い込まれた。また同時期にあかり君にも同様のことが起きた」
だから、
「だから君たちの精神は入れ替わった。予測ではあるが、これに大差はないだろう」
菊地原先生の言ったことを反芻し、理解しようと考える。
俺が入れ替わった場所は、俺の部屋。
たしか携帯電話を見てベッドに腰掛けていたはず……。
そこが、菊地原先生の言うミステリースポット?
そうだとして、あかりも同様だと言うなら、あかりもそこにいたことになる。
同じ時間、同じ場所にいた二人。
そこがミステリースポットになって、俺たちは精神が入れ替わった、ということだろうか?
そう聞くと、菊地原先生は肯定。
「うむ。なかなか飲み込みが早い子だ」
子、って言い方はやめてほしいのだが……。
あかりの見た目だけに、洒落になってない。
と、ふと疑問。
「俺とあかりが同じ時間に同じ場所にいた、って……“偶然”じゃないんですか?」
それは前に聞いた、最も危惧すべき事態。
偶然は人に真似することのできない事象だ。
だから、それが理由で入れ替わったとなると……
「そう、それがネックなのだ」
菊地原先生の表情が、固くなる。
「もしそれが完全に偶然であった場合……我々にはどうしようもなくなる」
「どうしようもなくなる、ですか……?」
「ああ、手の打ちようがないんだ。それが偶然だったとしたら、だがね」
菊地原先生の肯定的な返事に、少し緊張感が増す。
「ミステリースポットとは言っても、そこにいるだけで怪奇的な現象が起きるわけではない。きっかけが必要なのだ」
きっかけ、と話すのは、前にも言っていた偶然的ではなく、必然的な事柄。
ゆうなが何らかの形で今回の件に関わり、それが原因で起きてしまった、という可能性のことだ、と菊地原先生は言う。
「ゆうな君が関わってそれをきっかけとしたのなら、次に入れ替わりを起こすためには、同様のきっかけを起こせばいい」
ゆうなが俺とあかりの入れ替わりを望んだのなら、今度も同じように入れ替わりを望ませて、他のことを願ってそうなったのでも、元に戻れるように願いを変えればいい。
だが、
「もしきっかけが偶然であった場合、我々は、またその偶然を待たねばならなくなるのだよ」
たまたま発生したミステリースポットの中で、たまたま起きる偶然を待つ。
それは酷く絶望的なことだと、菊地原先生は眉尻を下げて言っていた。