それは偶然か必然か
「ど、ドリアン……?」
戸惑ったゆたかの鼻声に、はっと我に返った。
俺、今なんと……?
咄嗟に口をついた言葉。
それを思い出し、
「あっ、ご、ごめんなさい!」
なんてことを言ってしまったんだ、と後悔の念に急かされて頭を下げた。
膝に手をやり、腰はほぼ直角に。
(バカだろ、俺……!)
何であんな言葉を発してしまったのだろう。
ドリアンオヤジなんて、どう考えても悪意にしか取られないじゃないか。
菊地原先生が臭い。
これはゆたかが鼻をつまんでいる様を見ても平然としている時点で、本人も認識済みであることは明白なはず。
それなのに「ドリアン」などと、悪臭の代名詞と言える単語を吐くなんて……。
たしかにゆうなが「ドリアンの臭いに似てた」とも言ってたけど、菊地原先生がどんな人なのかはわからない。
だが、俺の発言は目上の人に対してあまりにも失礼なものだっただろう。
咄嗟の時に声を出してしまう自分を恨めしく思った。
が、
「ふふ、それぴったりだよ、あきら」
頭を下げていた俺に降りかかったのは、ゆたかの納得したような鼻声だった。
「……はい?」
今、ゆたかは何と言ったのか。
顔を上げると、ゆたかの手が俺の肩を叩く。
そして、鼻をつまんだままこちらに笑顔。
「まさにあきらの言う通りだよ。前から何かに似てるなって思ってたんだ。いやあ、今のでスッキリした」
そんな喉に引っかかった小骨が取れたような顔をされても……。
というか、これは本人の前で行われているのだ。
俺としては、まさかのゆたかの同意よりもそちらに戦々恐々なわけで。
「君、」
菊地原先生から投げられ掛けた声。
どきりと跳ねた心臓と同時にそちらを見やる。
眉間に寄せられたしわに、がっちりと組まれた太い腕。
難しい表情の菊地原先生と目が合った。
(あ、やばい……)
これは確実に怒ってる。
じっとこちらの顔を見る菊地原先生の顔は、とてもじゃないが明るくは見えない。
ましてや俺が発言したのは、失言とはいえ悪意百パーセントのものだ。
怒られる以外に何があろうと言うのか。
菊地原先生の表情が怒りに歪むのを想像し、思わず首をすくめてしまう。
と、
「もしかして、電車で転びかけた子かね?」
「え……あ、はい」
向こうもこちらを覚えているらしかった。
菊地原先生があのドリアンオヤジであれば、俺を知っていても何ら不思議はない。
彼は俺のすぐ近くにいた乗客であり、俺が電車から押し出されて転び掛けた様を間近で見ているはずなのだ。
俺が臭いで菊地原先生を覚えていたように、彼もまたハプニングで俺を覚えていたのだろう。
「電車で転び掛けた?」
聞くのはゆたかの鼻声。
そうか、ここについては詳しく話してなかったな、と思い、
「今日の昼前、ここに来る途中で――」
「わざと転んでお姉さんの気を引こうとしたんだね?」
まさかの菊地原先生。
「……はい?」
一瞬、ふざけているのかと思った。
わざと転ぶとか、どこにお姉さんがいたのかとか、不可解なことばかり。
が、見れば菊地原先生の表情は至って真面目。
「あの、お姉さんって誰のことですか?」
わざと、の件はそう見えたのならそう見えたんだろうとも考えられる。
だが、お姉さん?
「違うのかい? 君の隣にいて、転び掛けた君の腕を引っ張っていた茶髪の女性のことだよ」
ゆうなのことっすか……。
俺はあかりの容姿を知っている分、そう見られてもおかしくないことは把握している。
それだけあかりの姿は、幼く見えても仕方ないような体型なのだ。
だが、否定すべきところはする。
「それ、お姉さんじゃなくて俺の彼女です」
「“俺”? “彼女”?」
眉根を詰め、ふと険しい表情になる菊地原先生を見て、しまったと思った。
俺が男であったことを隠すつもりはない。
むしろ菊地原先生には指導を請うために説明しなければならないが、今はその前。
何の説明もしていない段階だった。
そんな状況で、見た目だけなら少女一直線である俺が「俺」や「俺の彼女」などという発言をし、理解されるわけがない。発言の順序を間違えた。
と、菊地原先生が自身のあごに手をやり、
「もしかして、この子はゆたか君の同類なのかね?」
「ど、同類?」
疑問に、問いかけられたゆたかを見上げる。
返答は、鼻をつまんだまま首を振ることだった。
「恋愛対象の性別は同じですが、性質は全く別物です。それと、先生はもう一歩下がってください。ドリアン染みた体臭の脅威によって消臭力の効力が薄まってしまいます」
「言い方キツくね!?」
思わず突っ込む。
正直、鼻をつまみ続けているゆたかの姿には見慣れてきた感があるが……。
ゆたかって、こんなに毒舌だったん?
「いやあすまないね」
しかも、菊地原先生はそれを嫌とも思わないように謝るし。
「さっきからその子がおかしなことばかり言うから、何なのだと思いが先行してしまってね」
おかしなことって言われましても……。
いくら「ドリアンオヤジ」だの、見た目少女で「俺」や「彼女」ばかり発言していても、さすがに今のゆたかよりは……ねえ?
「事情はこれから話します」
そう言うのは、やはり鼻声のゆたか。
相変わらず鼻をつまむ姿が目に付くが、いかんせん対象の菊地原先生が何も言わないのに俺がどうこう言うのもあれだし。
ゆたかの言うとおり、事情を説明すればこの件については落ち着くだろうと思う。
だから、賛同の意味で俺も頷いた。
「ということは、やはりゆたか君が話していた相談というのは、その子のことなのかね?」
「はい、この子のことです」
代名詞とは言え、「この子」だの「その子」だの、子供扱いされている気が……。
俺と同じく、あかりだって二十歳を超えているはずなのに。
まあ、しょうがないか。
「それでは、一から説明を始めますね」
ゆたかの鼻声に、まあこのことも事情の説明によってわかることだろうと考える。
そして、どうやら説明係はゆたかを主とするらしい。
俺はそれを汲み、サブとして説明あたることにした――