曖昧なIF
*
ゆたかは元々座っていた奥の席に腰掛け、俺はその前で立っている。
これは俺からお願いしたこと。
今の俺とゆたかの身長差では、立つか座るかで同じ姿勢になっていると、ゆたかの顔を見上げる俺の首が痛くて仕方がない。
客人を立たせるのはちょっと、としぶるゆたかを言いくるめ、この状態で話を聞いてもらうことになった。
一通り俺の話を聞き終えたゆたかは、ゆっくりと頷き、俺の話を要約する。
「つまり、君にとってこの世界はIFの世界であり、私は君の友人である菅原たくやと同じ立場にある、というわけだね」
眉根を詰めて真剣に考えるようなゆたかの表情を見る限り、この説明で大体はわかってくれただろうと思う。
そして、理解もしてくれていると感じる。
さすがだな、というのが俺の感想。
もちろん俺は理解して――信じてもらえるように言葉を尽くして説明したのだから、そうあってくれたのは期待通りではある。
しかし、逆の立場だったらどうだろう。
ある日、友人が急に訪ねてきて『パラレルワールドに飛ばされた』なんて言われて、すんなり信じられるだろうか。
俺自身の答えは怪しいものだが、そうでなかったゆたかはさすがオカルト研究部といったところだろう。
思い返せば、ゆうなも意外とあっさり信じてくれたっけ。
あのときは『彼女だから』の一言でまとめられていたけど、ゆうなも本当によく信じてくれたものだと思う。
ゆたかと違ってその手のことに詳しくないはずだから、俺の言葉を信じてくれたのは、きっと話の内容ではなく俺を見て、普段の関係性を考えてのことだったのだろう。
それは、すごく嬉しいことだ。
そんな風に、ゆうなは信じてくれたのに……。
不意に痛み。
胸の内側に、ちくりと小さく、鈍い痛み。
……今は考えるのをやめよう。
今は待つだけ。
考えてくれているゆたかの邪魔をせず、余計なことを考えず、答えが導き出されるのを期待するだけにする。
そうして待つこと数分。
「……はぁ」
不意にため息を漏らしたのはゆたか。
強ばらせていた表情を崩し、力の抜けた顔になった。
手のひらを上に、オーバーリアクション気味に首を横に振る。
「やはり滅入りそうな命題だね、平行世界というものは」
「そうなの?」
「うん。君の話を聞く限りだと、この世界は完全な反転世界ではないようだからね。君とあかりは性格が似ているようだし、君の彼女は性別が変わらず、私は霊能力の保持が共通項だ」
えっと、それはつまり……。
「この世界は君の世界にとって、ところどころを反転させただけの、中途半端な出来にすぎない、ということさ」
「中途半端、か」
「うん。もし完全に反転している世界ならあかりは女性らしい言葉遣いだろうし、君の彼女は彼氏のはず。私は幽霊を見るどころか、その存在すら認めていないだろうね」
なるほど、と思った。
この世界の定義が「反転」であるならゆたかの言うとおり、いくつかの事実がそれを否定しているように思う。
性転換について見れば、ゆうなの存在が浮いてくる。
俺とあかり、たくやとゆたか。
それぞれ男女の組み合わせになっているのに、ゆうなはゆうなのまま。
性格について見れば、俺とたくやの対比。
ゆたかの性格がたくやとかけ離れていて、たくやはクールというか寡黙な性格だったが、ゆたかはその逆。
語り口は雄弁の表現が似合い、表情もコロコロ変わるようなタイプなので、似ても似つかない。
一方で俺とあかりの性格が似通っている点を考えると、共通項にはならない。
反転しているところもあれば、そうでないところもある。
それを指しての「中途半端」だと、ゆたかは言う。
「それにね、」
細く長い腕を上げ、慣れた手つきで俺の頭を撫でるゆたか。
やはり慣れないその感覚に、拒否はしないものの俺は首をすくめて受ける。
「今のところ、原因もわからないな」
頭皮に触れた指先が、小さくブレた。
「わからない……?」
「うん。正直に言うと、どうしていいのかもわからない。手詰まりだよ」
頭をなでる指先が柔らかくつむじをなぞり、こそばゆい。
その感覚が、酷く煩わしかった。
――原因がわからない。
ゆたかの発した言葉。
過度な期待こそしていなかったが、それでもそう言われたらショックを隠しきれない。
それが、俺の中で抱いていた唯一の希望だったから。
「あー、マジかよ……」
たった一つのあてだったたくや、もとい今はゆたかがなくなった。
つまりそれは元の世界に帰れる可能性が消失したことを意味しており、絶望に繋がる。
――元の世界に帰れない。
事実が脳裏に反芻する。
「俺……ずっとこのままなのかな?」
「厳しいことを言うようだけど、そうなるかもしれないね。私の力じゃ、どうにもできないよ」
……信じられない。
いや、信じたくなかった。
どこから楽観的な……いや、これまで深く考えないことで、入れ替わってから十二時間以上も過ごしてきた。
だが……。
「なあ、どうしても帰れないのか?」
こんな小さい体なんて嫌だ。
こんな非力な体なんて嫌だ。
俺は男であきらで、あかりじゃない。
戻れることなら戻りたいし、戻れないとしても絶対に戻りたい。
「どんなことでもするからさ。頑張るから。だから――」
「私じゃ無理だよ」
すっと振り下ろされた言葉で、断ち切られた。
頭に触れていた指が離れ、ゆたかが立ち上がる。
遥か高みからこちらを見下ろす視線が、酷く痛かった。
「全ての物事には原因がある。それが現実的であれ、超常的であれ、ね」
頷くと、視界の両端で長い髪が揺れる。
「だから、物事を解決するには原因が必要になる。理屈はわかるよね? 解決には原因を取り除くしかない」
解決のため原因を取り除こうとするのに、その原因がわからないでは元も子もない。
スタートラインにすら立っていないような状態と言っても過言ではない。
そんな状態で、一体何ができようというのか。
そう、ゆたかは言う。
「さらに原因を探ろうにも、君の置かれている状況が曖昧すぎて測りかねるんだ。さっき言った中途半端な世界、というのがこれにあたるね」
「……そっか」
ゆたかに負けないくらい高い声が返事をする。
いい加減慣れたと思っていたそれが、頭に痛く残った。
「落ち込まないで、なんて軽々しい言葉は言わないよ。今の君に言っても無粋だろうしね。ただ、事実を受け入れてほしいんだ」
「……うん」
返事をしても、それが何に対するものなのかがわからない。
意識がちっとも会話に回らない。
考えるのは、現実。
潰えた希望について。
元の世界に戻れない。
この世界にい続けなくちゃいけない。
――ゆうなに嫌われたままになる。
嫌だ……。
そんなの嫌だ。
俺はこんなことを望んじゃいない。
考えたことだってない。
なのに……なんでだよ。
女に性転換なんて、他にいくらでも望むやつがいるだろ?
いっぱいいるはずなんだ。
なのに……選ばれたのは俺。
こんなの苦痛でしかない。
俺が奪われた。
あきらの存在が俺とイコールではなくなった。
こんなにも悲劇的なことなのに……。
誰一人として、あきらを知るやつなんていないんだ。
ああ、今さら思うよ。
なんて悲劇に巻き込まれたんだ、ってな。