調子を狂わせるのはハプニング
電車が俺の家の最寄り駅を出発して、少しの時間が経った。
今の俺は電車のドアを目の前にし、ゆうなは後ろから俺を覆うような形で立っている。
背中に当たるゆうなの柔らかいものにドキッとしないわけではないが、ちょっとそういう気分でもないし、味わえるほどの余裕もない。
余裕がないのは、通学と通勤がぶつかるこの時間帯の乗車率は非常に高く、俺たち以外の乗客との距離も近くてすごく窮屈であるため。
あかりの体が非力だったとはいえ、乗り込めないほどの乗車率だったのだから、それはもう相当な窮屈さ。身動ぎするのも厳しい。
ただ、これから先、大学の最寄り駅に着くまでこちら側のドアが開くことはない。
途中に数駅挟むが、いずれも俺が今いる方とは反対側のドアが開く駅しかないので、大学に向かう際は一度自分の場所さえ確保できれば、人の乗り降りに関係なく保持される。
あかりの体の非力さを考えると、途中駅で降りたり乗ったりするのはなかなか厳しいだろうと思うので、これは幸いだった。
また、ゆうなが俺が押しつぶされないように頑張ってくれているのか、電車の揺れによって生じる乗客の圧迫もさほど感じなかった。
ゆうなは本当に優しい。
勝手に不機嫌になってしまった俺に対して、こんなにも気を遣ってくれている。
そんな風にゆうなへの感謝を思い馳せたかったのだが、今の俺はそれどころではない。
ゆうなのおっぱいとか窮屈とか、そういうのではなく、
(く、臭い……)
刺激臭にも近いそれが俺の鼻を突く。
耐えられそうにない強烈な悪臭。
おじさん特有のなんとも言えない加齢臭と、夏場にはつきものの汗臭さ。
そのコンビネーションは語るに尽くせない。むしろ言葉が出ない。
ひたすら醜悪としか言えないほど、鼻腔に不快感を与え続けてくるのだ。
さらに加わるのは、甘い香水の匂い。
匂いの近さから言って、これはゆうながつけてきたものだろう。
単体で言えば、何一つ苦情を持ち出そう思考さえ湧かないものだが、他と混ざり合うなら別。
刺激臭に近いものに、ねっとりとした甘ったるさが加わったと言えばいいだろうか。より凶悪な悪臭と化してしまっている。
窮屈さをひたすら我慢するしかない状況なのに、これをもうしばらく耐えるのは相当厳しいものがあった。
(うわぁ、どうしよう……)
臭いの近さと電車に乗ったときの記憶を照らし合わせて、たぶんこれは出入り口すぐ近くに乗っていたサラリーマン風のオヤジから発しているのだろうと推測する。
それが合っていようが間違っていようが、解決策を思案しようとも、俺にできることは何もない。
身動きできないほどの乗車率の中、降車する以外にオヤジの臭いを遮断する方法はないのだから。
下手すれば俺の降りる駅まで、ずっと一緒かもしれない。
先述の通り、これから先、こちら側のドアは大学の最寄り駅まで開くことはない。
乗客の立ち位置が変わることはない。
車両を変えることもできない。
つまり、オヤジが先に降りない限り、この拷問のような臭い攻めが続くはず。
(う、それは嫌だ……このままじゃ気分が悪くなる……)
これから数十分もこの臭いと格闘しながら電車に揺られなくちゃいけないとすれば、それは耐え難い地獄に他ならない。
無理むり、これ以上こんな臭いを肺に入れたくない……。
そこまで臭いものに対して苦手でもなかったような気がするのだが、あかりの体になって鼻が敏感になったのだろうか。とにかくこの臭いが嫌で仕方がない。
これまで経験したことのない嫌悪感に近い感情。
これが「生理的に無理」というやつなのだろうか……?
というか、この臭いオヤジ、鼻をスンスンさせてないか?
俺からして背後、たぶん臭いの発生源と思われるオヤジのいる方から、細かく何度も鼻をすする音が聞こえる。
なにかの臭いを探っているように感じるが、なんだろう……?
そんなことを疑問に思っていると、不意に電車のブレーキ音が耳に届いてきた。
オヤジの臭いと奮闘しているうちに次の駅に着いたらしい。
耳に残る金属音を軋ませ、ドア窓からホームの景色が流れ込んでくる。
あまり大きくない、もう少しでも規模が小さければ無人駅でも不思議ではない駅。
ホームから見える景色は緑が多く、駅前に建っているのは一軒のコンビニとまばらな住宅だけ。
記憶の限り、乗る人も降りる人も少なくて乗車率にあまり変動を与えるような駅ではないので、オヤジもまさかこんな駅で降りないだろう。
降りないだろうけど、
(頼む、はやく降りてくれ……!)
祈るように、心のなかでオヤジが降りてくれるのを願う俺。
まさかの可能性にかけて祈った俺の願いは、そのまさかの可能性で届いたらしい。
電車が到着してドアの開閉音がすると同時、背後から人の動く気配。
身動きするのも難しかった状態から少し空いた隙間を使って振り返り、こちらは閉まったままのドアを背にして、満員電車の人ごみの中に消えていったオヤジを見送る。
(よ……よかったぁ……)
まだ臭気は残るものの、その元凶がいなくなればいつかは消え失せるもの。
憂いの元凶がなくなったのだから、喜ばざるを得ない。
その喜びがあれば、もうオヤジのことなんてどうでもいい。
「ふう、臭かった……」
何はともあれ、苦難は取り除かれた。
その安心感から、僅かな声量でつぶやきが漏れ出した。
本当に小さな独り言。
だが、それは僅かな距離感であれば届くものだったらしい。
「本当にね。すごい臭いだったよね」
そう、ゆうなに返事をされたのだから。
「あ、う、うん……」
何の気なしにつぶやいた独り言を返されてしまい、思わず小さく頷いてしまう。
それが、会話に続くきっかけになった。
「窓ガラスにすごく嫌そうな顔が見えて、大丈夫かなぁって心配だったんだよね」
今はゆうなに正面を向けているが、先ほどまではドアに向いていた俺。
ちょうど電車のドアの窓ガラスが正面にあったため、そこに反射した俺の表情がゆうなに見えたのだろう。
「そ、そっか」
俺がそう返事をしたころ、反対のドアが閉まり、小さな揺れと共に電車が動き出す。
「うん。で、平気? 気分悪くなってない?」
「いや……まあ、平気」
いくら臭いとはいっても、さすがに倒れるようなものではない。
もう数駅の間、嗅がされていたらどうなったかわからないけど、とにかくもう平気。
他の乗客の迷惑にならないよう小さな声で、俺は返答した。
このときの俺はすっかり忘れていた。
ゆうなへの躊躇いから、まったくゆうなと会話をしていなかったことを。
そして、気付けなかった。
ここから徐々に広がった会話によって、俺の口が少しずつ緩くなっていったことを。




