Re:俺はXXになりたくなかった
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目が覚めたら、知っている天井だった。
大学生活を始めるにあたって引っ越し、それ以来暮らし続けている一人暮らしのワンルーム。
決して綺麗とは言えない天井だけど、改めて見ると心が落ち着く居心地の良さ。
そんなことをぼうと考え込んでしまうくらい、寝起きの俺は思考が緩慢だった。
ベッドの上。仰向けに寝ていた俺はパチリをまぶたを開き、大したことのない天井から視線を外す。
上体を起こし、窓を見ればカーテンの隙間から漏れ出す陽の光。
朝特有の清々しい空気感が肌を刺し、自分が半袖姿でいるのを自覚した。
あまり焦点が定まらない視界のまま、自分の体を見下ろす。
無地の半袖シャツに、楽だからとよく大学に履いていくパンツ。
それらが包む体は小さく――ない。
薄く、そこそこに引き締まった体つき。
見える腕はほどほどに筋肉質で、手も無骨で比較的大きい。
――比較的。
そう、俺には見下ろす体の比較対象があった。
その比較対象は僅か一日だけのもので、今見えるのはもっと多くの時間を共にしてきた馴染み深いもの。
「……あ」
ゆっくりと自堕落に回っていた思考が、カチリと音を立ててはまった感覚。
漏れ出た声は低く、触った喉には喉仏の存在がある。
手を上げて頭に触れれば、ちくちくと刺さる短い髪。
顔に手を当て、わかるのは柔らかみの少ない触感と、僅かに伸びている髭。
「も、戻った……」
確認し、理解し、実感する。
胸に手をあてても薄く柔らかい感触は返ってこないし、パンツのチャックを開けて股間を覗き込めば認められる存在。
――俺は、自分の体に戻れていた。
「よっしゃ――!」
両手を振り上げ、大きくガッツポーズする。
歓喜の感情が胸を満たし、体の奥から沸騰するような熱い感覚が押し寄せる。
俺は戻れた――
あかりの小さな体に閉じ込められ、苦労して苦慮して苦難して、みんなに助けてもらってようやく見つけて、俺は戻ってこられた。
たった一日。
無用意に過ごせば何をすることもなく過ぎ去ってしまう僅かな時間で、どれほどのことを体験したのだろう。
しかし、喉元すぎれば感謝も覚える。
湧き上がる歓喜の感情は、あまりに濃厚だった一日の思い出をも湧き上がらせ、助けてくれたみんなへの感謝の気持ちと合わさっていく。
脳裏に浮かぶみんなの顔――
深い、深い感謝を噛み締める。
「起きたの?」
そんなとき、不意に腰のあたりから小さな声がした。
女性の声にしては低く、男性の声にしては高い、おさなげのある声色。
見れば、そこには眠たげな“たくや”がいた。
足を崩して床に座り、ベッドに上体を預けて寝ていたような体勢。
小さく華奢な体が僅かばかりにベッドを沈ませ、ベッドに寝ていた俺に付き添っていたように見える状態から、たくやは体を起こして伸びをする。
普段でさえ開ききっていないまぶたをより薄くし、ふわあと小さなあくびをするたくや。
「起きて、よかった」
呑気にあくびをした後、俺の顔を見て、ふにゃりと柔らかい笑みが向けられる。
無表情を基本とするたくやの顔で、こんな表情になるとは思いもよらなかった。
その驚いた感情は、状況を認識し、理解し始めた俺の頭には強い衝撃を与えるもの。
「た、たくや……!」
たくやがいる。
ゆたかではなく、たくやがいる。
それは俺の体が戻っただけでなく、元の世界に戻れたという確たる証拠。
自分の体を見下ろして感じた数倍、強く実感する。
「俺、戻れたんだ……! 戻れたよ、たくや!」
「うん、よかった」
小さくか細い、それだけの返事。
微々たる変化しかしない表情も、付き合いの長くなってきた俺には十分に伝わるもので。
すっかり薄く硬くなった胸では喜びの感情を抑えきれず、思いがけずたくやを抱きしめてしまう。
「あ……」
小さなたくやの反応は、それ以上にずっと大きい感謝の気持ちで上塗りされる。
みそら先生から聞いて、知っていたのだ。
たくやは別の世界の俺を帰すために頑張って助けてくれたこと。
あかりのいる世界に行ってしまった俺のことを、すごく心配してくれていたこと。
どれもが友人として嬉しいことであり、こうして戻ってこれて、たくやに会えて、とにかく俺は嬉しいと思う感情を爆発させていた。
「ありがとう! ありがとう、たくや! 俺が戻ってこれたのは、たくやのおかげだ!」
「う、うん」
無感情に近いたくやが戸惑う返事をするのは珍しいなと思う反面、俺がこんな風に友人を抱きしめるなんて感情表現をするのも珍しいことで。
そのことに気づき、ちょっと照れくさくなってたくやから離れた。
突然の行動で驚いたのだろうか、身を離したたくやの顔が少し紅潮して見える。たぶん、俺も照れで近い状態になっているのだろうけど。
なんてことを考えていると、不意に過ぎった他の人の存在。
たくやは付き添うように俺のそばにいてくれた。
では、みそら先生と――ゆうなは?
俺があかりの体にいて、ゆたかたちと“裏側”に向かったとき、みんなで睡眠薬を飲んで、俺のベッドを囲むようにして寝たと記憶している。
もしたくやたちも同じような行動をしていたとしたら、みそら先生とゆうなも、俺の部屋にいるはずだ。
そんな考えが頭を満たし、周囲を見渡す。
しかし、見えるのは俺の部屋にあるものだけで、人の姿はない。
あかりのものではない、俺の自身が所有する男性向けのシャツなどが詰まっているタンスに、途中でちぎれてしまったチェーンがぶら下がっている玄関の扉。
見える範囲にいるのは、ただぼうとした眼で俺を見上げてくるたくやだけだった。
「先生は帰った」
俺が人探しをする様子に気づいたのだろう。
たくやは俺が質問するより早く、先回りして答えを小さな声で伝えてくれる。
「先に起きて、もう大丈夫って言って、帰った」
短く切られた言葉の後、たくやは玄関の方を振り向いて、その扉に向けて指を差す。
おそらく、俺より早く起きたみそら先生は長居することなく、たくやの指差す玄関から出て帰ったのだろう。
ワンルームである我が家は、ベッドの上からでも雑多に並べられた靴を見て取れるので、そこにあの特徴的な真っ赤なハイヒールがないことで、みそら先生がいないことも確認できた。
「先に帰っちゃったのか……」
みそら先生にもすごく感謝している思いがあり、それを改めて伝えることもできないまま帰ってしまったと聞いて、残念に思う。
とは言っても、ゆたかやあかりたちと違って、みそら先生とは同じ世界の住人だ。もう会えないなんてことはない。
たくやとの縁もあるし、オカルト研究部に顔を見せに行けば会えることもあるだろう。
ちゃんとしたお礼は、そのときにすれば良い。
ゆたかたちのことを思い出し、胸にちくりとした痛み。
彼女たちに助けられたおかげで今の俺があり、その彼女たちともう会えることはない。
寂しいと思う感情は痛みに変わり、事実として俺に認識させる。
でも、会えないけど、会える人もいる。
――ゆうな。
あかりになった俺と一緒に悩んでくれたり、助けてくれたり、あとたくさん襲ってきた彼女。
彼女本人は別の世界の人だけど、同じ見た目の俺の彼女はこの世界にいる。
「あと」
短く二文字だけ。
たくやが玄関先に向けていた指を、今度はうちにあるもう一つの扉――洗面所へと向かう扉へと向ける。
「先に起きて、さっき風呂に入って、たぶんまだいる」
また端的に告げられた内容から、たぶんゆうなも俺より先に起きていて、風呂に入りに行ったのだろうことが伝わる。
たくやの言葉は短く理解するのは困難だが、慣れればどうということはない。
ただ、理解した結果、少しだけ不満に思ってしまう感情もある。
こんなことを思うのも変なんだけど、目が覚めてすぐそばにいたのが友達のたくやで、彼女のゆうなが風呂っていうのは、なんだか寂しいというか……。
いや、と頭を振る。
壁掛け時計を見れば、今は十時すぎ。
たしか普段のゆうなは七時くらいには起きていたはずだから、きっと最初は俺が起きるか見守ってくれていたけど、ある程度時間が経ってたくやも起きたから、その間に風呂を済ませておこうと思ったのだろう。
そんなときに間が悪い俺が目覚めたから勝手に寂しくなっちゃったけど、俺の知っている俺の彼女のゆうなはそんな子じゃないはずだから、きっとこんな感じのすれ違いに違いない。
そう自分を思い込ませることで、俺は自分に向けて深く頷く。
そんな俺をたくやが不思議そうな目で見上げてきたけど、気にしないことにした。
「お茶、いる?」
「ああ、いる。ありがとう」
寝起きの俺を気遣ってくれたのだろう。
たくやは俺にそう聞いて、すっと立ち上がり、軽い足取りでうちのキッチンの方に向かっていった。
華奢で身長の低いたくやはあかりほどではないが、真っすぐ立っても座っている俺が少し見上げるくらいしかなく、とても男子大学生には見えない。
見えないのだが、たくやだって男である。
恋人の俺や同性のみそら先生は良いとして、男性のたくやがいるこの空間で、ゆうなの風呂に入るという行動自体はどうなのだろう?
ゆうなってそんな子だったっけ……?
と、そんな折。
扉越しに物音がして、くぐもった音として俺の耳に届く。
それは洗面所の奥にある風呂場の扉が開く音のように聞こえ、またすぐに閉まる音も聞こえた。
ゆうなが風呂から上がったのだろう。
もう間もなくゆうなは洗面所の扉を開けて出てくるだろうことが予想され、少し焦る。
いきなりということもあるし、ゆうながどんな格好で出てくるかわからないから急いでたくやの目を覆い隠しに行くべきかなんてことも考えたし、体感的には久しぶりに会うゆうなにどんな顔をしようかと悩んだこともある。
視線を左右に、何かできることもないけどなぜか慌ててしまった。
そして、左右に振った視線の先には先ほども見た玄関があり、ふと思う。
……あれ、ゆうなの靴もないような?
――ガチャ。
思考がまとまらないうちに、洗面所の扉が開く。
それに気がついて目を向け――俺は言葉を失う。
ドア枠に頭が触れそうな長身。
茶髪は耳にかからない程度に切り揃えられ、濡れていることもあってか強めのパーマがかかっているように見える。
濡れた髪から下を見れば、すごく端正で、すっと通った鼻梁が印象深い美形の顔。
下にトランクス一丁で、肩には濡れたタオル。それ以上に身にまとうものはない。
筋肉で引き締まった体は長身のそれに相応しく、整った顔つきも合わせてメンズモデルのように見えた。
そんなスタイル抜群のイケメンが、俺の家の洗面所から出てきた。
さも風呂上がりといった様子で。
驚き目を見開く俺に、そのイケメンもほとんど同じような表情をしていた。
綺麗な二重の目を大きくさせて俺を見て、ぽかんと口を開けている。
でも、そんな沈黙の時間はすぐに終わる。
「あきらっ! 起きたのかっ!?」
聞こえの良い低音がイケメンの喉から出てきて、長い足でずんずんと俺に近寄ってくる。
え、え、と驚き固まっている俺に構うことなく――俺は抱きしめられた。
俺がたくやにしたような、力任せの抱擁。
何が起きているのか理解できず、頭がパンク寸前。
俺を抱きしめる腕は筋張っていて、昨日されたどれとも全然違う感覚がもたらされる。
ふと我に返った俺は、抱きしめるイケメンを突き飛ばした。
「だ、誰だお前っ!」
声が震えたのは動揺からだろう。
突き飛ばされたその男は僅かにたたらを踏むだけで体勢を崩さず、しかし戸惑った様子で俺を見てくる。
「え、誰って……“ゆうた”だよ。あきらの彼氏の“ゆうた”。もしかして――」
男の言うことが理解できない。
耳に入る言葉が滑り、頭に入る前にこぼれ落ちる。
「どうしたの」
そんなとき、申しわけ程度に仕切っているだけのキッチンの方から顔を覗かせたたくや。
たくやに、俺はイケメンの方を指差し、すがるような思いで聞く。
「こ、こいつ、だれ……?」
「ゆうた。あきらの、彼氏」
無表情に近くも、何を聞いているのだろうと言いたげな目を受け、ぎくりとしてまた俺はパンツ一丁のイケメンに顔を向ける。
「え、だって、先生は大丈夫だって言ってたし……でも、これって……」
ぶつぶつとぼやく彼は、胸の下で腕を組み、俺を見ながら悩んでいる様子。
その様子が、薄っすらとではあるが俺の彼女――ゆうなの姿と被る。
いや、それ以上に被るのは、“裏側”で見たゆうなが男性に変身した姿。
その時のゆうなも、今俺の目の前にいるこんな感じの男性ではなかったか――
度し難い想像が、現実のものだと理解する。
理解したくないのに、わかってしまい、頭を抱える。
――俺は、ゆうなが“ゆうた”という名前の男に変わった世界に来てしまった。
「は、はああぁぁぁっ!?」
嘆きの叫びになって喉を震わせ、ワンルームの部屋に響き渡った。
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ゆうながレズビアンになっている世界から帰ってこれたと思ったら、今度はゆうながゆうたという名前のゲイになっている世界に来てしまった俺。
長身イケメンのゆうたに押し倒されて貞操を奪われそうになったり、この世界のたくやは何故か俺のことが好きで無表情のまま淡々と誘ってきたり、ようやく会えたみそら先生はBL好きで派手に暴走を始めたり……。
無事にちゃんと元の世界に戻るのにもう一波乱あったのだが、それはまた別のお話――