ふりかえり、みおくり、さようなら
好きなタイミングで、と言われたところで、三々五々帰っていくということはない。
頭に浮かぶのは、さっきのゆたかの言葉。
――もう会えなくなってしまう。
それを思うと、帰れるからと言ってすぐに行動に移すのは忍びなく、二の足を踏んでしまう。
誰からともなく顔を見合わせるのだが、誰も動かない。
動けないというべきか。
気まずそうな表情が交差して、視線をそらしてしまう。
でも、俺たちには“無の壁”が迫っている。
ゆうなの発案が活かされ、みそら先生のイメージした花畑によって囲われているので、直近に迫るものがないのはわかる。
しかし、いつまでもぼうと立ち尽くしているわけにもいかない。
そんなとき、思い出したのはみそら先生の言っていたこと。
最初に帰すのは、あかりから。
もし俺が先に“裏側”から出て、間違ってあかりの体に戻ってしまったら、あかりは戻る体をなくしてしまう。
そうならないようにあかりから帰ってもらい、俺は自分の体にしか戻れない状態にした方が安全で確実だという話。
なら、俺は見送る側だ。
思い出した言葉は覚悟となり、行動へ繋がる。
俺は一歩前へ、みそら先生の方に向かって歩き出す。
さらに数歩進んでみそら先生の隣に立ち、振り返ると、ゆうなとゆたか、あかりと対面する。
それぞれの後方に巨大な門が控え、その間に俺たちが向かい合って立っている。
俺とみそら先生、ゆうなとゆたかとあかり。それぞれの世界ごとに。
周囲には爛漫と咲き誇るカサブランカの花畑。
風が吹いていないのに優雅に揺れて見えるのは、みそら先生のイメージによるものだろう。
小さく息を吸い込んで、肺に甘い香りが満たされる。
吐き出し、今の俺より少しだけ背の高いあかりを見る。
「あかり――」
俺が伝えるのは、最初にあかりに元の世界に帰ってほしいということ。
そして、先ほども伝えていた感謝の気持ち。
『また気持ち悪いこと言うつもりかよ。いい加減にしないと吐くぞ、俺が』
笑えない冗談を言って舌を出すあかりの態度は、もう俺からすればお馴染みで。
腹立たしく思う気持ちすらも、今はおかしく感じてしまう。
「あかりは強いやつだよな。体は小さいし力も弱いし、俺が言うのもあれだけど泣き虫で、ゆうなにすっごく甘えてる」
『……バカにしてんのか?』
「違う違う。そんなあかりだけど、いや、そんなあかりだから、強くあろうと頑張ってるのがよくわかってさ――」
あかりが男言葉を使い、女の子らしい服装をやめて男装を始めた理由。
俺の変身がうまくいかないとき、自分を変えようと決意して残ってくれたとき。
あかりの酷く弱々しい体に入っていた俺だからわかる。
自分が心もとないのに、頑張れる強い心。
俺があかりの体でいるとき、いろんなことに怯えていたと思う。
大きくて力も強いゆうなやゆたかに襲われたときは、どうしようもなく怖かったし。
ゆうなと喧嘩してしまって別れてしまいそうになったときは、不甲斐ない自分を悔いて泣いてしまったし。
男の体の俺だったらそうはならなかっただろうことも、あかりの小さな体に押し込められ、足掻けなくなったことによって、臆病になってしまっていたのだと思う。
でも、あかりはずっとその体で生きてきて、かつ強くあろうと頑張っている。
俺には窮屈だったその小さな体で、あかりはどこへ向かうのだろう。
それは俺には到底真似のできないことで、さらに頑張ろうと決意したあかりのことは、掛け値なしに尊敬できると思えた。
「俺とゆうなの関係とは違うんだろうけど、違わない部分も多くあって、俺たちよりあかりたちの方がよく考えて恋愛してるんだなって思った。勉強になったし、考えさせられたよ」
俺とゆうなは異性愛の恋人同士で、あかりとゆうなは同性愛の恋人同士。
同じ恋人同士なのに、きっと訪れてきた出来事は違うし、たぶんこれからもそう。
どっちがどうだと比較するわけじゃないけど、ただ俺たちは同じようで違う人生を歩み、違う関係性を築いていたのだろう。
それは俺がこの世界に来ないまま生きていたら知らなかったことだろうし、翻って自分のことを、俺たちのことを考えるきっかけになった。
「俺の覚えてないところでもいっぱい喧嘩したんだろうけど、まあ同族嫌悪みたいなもんだし、それは仕方ないよな。俺が覚えている限りでは、あかりのことも聞けて良かったと思ってる。たくさん協力してくれてありがとう。本当に助かったよ」
俺とあかりは同じ人物で、ゆうなももちろん同じ人物。
平行世界として、どこかで分かたれた結果、遠く離れてしまった関係。
似ているけどどこまでも違うと感じられたのは、あかりとゆうな、それぞれの話を聞けたから。
俺とゆうなが悩むことのなかった壁に、どう向き合い、立ち向かい、戦っているのかを聞いて、胸が締め付けられる思いだった。
さっきのゆうなの言葉を思い出し、伏せそうになる顔を上げて、あえて笑う。
「でも口が汚いのと、変に無防備なのは直せよ? そんなに口が汚いといつかゆうなが愛想つかしそうだし、そんなに可愛い見た目しておいて何かとすぐにパンツ見せるのはどうかと思うぞ」
『う、うううるせえよっ! お前がいなきゃそんなことねえんだよ! 気をつけるよバーカ!』
否定するのか受け入れるのかよくわからない言葉で叫び散らし、顔を真っ赤にしたあかりはべーっと舌を出してくる。
見た目も行動も子供らしく、本当に俺と同い年なのか怪しいくらいだ。
同い年どころか、世界を隔てて同じ存在とまできている。我が振りを直そうと切に思う。
『お前がいろいろ言うから俺も返すけどな、お前はすっごい流されやすい! 抵抗しろ! 人の体で好き勝手やられんな!』
「いや、だいたい俺は被害者なんだけど……まあ、うん、それも気をつけるよ」
思い当たる節はかなりあるので、苛立ちを腹で押さえつつ、俺は大人なので頷く。
それは、男性の菊地原先生に言われたことでもあるし、直さないとなぁ。
ふん、と鼻を鳴らして無い胸を張るあかりは、長い黒髪を振って翻り、俺に背を向ける。
首だけ振り返り、あえてそうしているようなしかめっ面で俺を見た。
『もうこれ以上お前の小言聞きたくないから帰る! じゃあな!』
そんなことを言って、ずんずんと門に向かって歩き出す。
じゃあな、なんて言って返すも、ちょっと言い過ぎたかなと思う感情もあり、背を向けて歩き出したあかりの姿から目が離せなかった。
その視線があったからか、最後にもう一度だけ振り返って小さく言ったあかりの声を聞き逃さなかった。
『お前もちゃんと帰って、お前のところのゆうなとも仲良くやれよ』
「……おう。ありがとう、あかり」
また小さく舌を出したあかりは、今度こそ門の中へと足を踏み出す。
先に戻ってるぞ、なんてことをゆうなとゆたかに告げた直後、前に出したあかりの足が門が作る漆黒の空間に触れ――消える。
“無の壁”に触れたときとは違う、姿が薄くなり、光となって消えていくような光景。
驚く感情はあれど、それを見ていたみそら先生が満足そうに頷いているのを横目に見て、これで良いのだと理解する。
「もう、あかりってば……」
置いていかれたことを不満げに漏らすゆうなは、可愛らしい膨れっ面になっている。
俺の大好きな可愛い容姿はそのままに、今目の前にいるゆうなは、俺の恋人のゆうなとはまるで違う存在だ。
「ゆうな――」
俺が声をかけると、表情を一変させ、柔らかい表情で「どうしたの?」と聞いてくるゆうな。
男嫌いと自称するゆうなが俺にその表情を向けてくれるのは、ゆうなからのお願いを聞き、あかりの体のままでいることも大きいのだろう。
「あ、もしかして私にも何か言うつもり? やめてよ。最後に一言多いのは女の特権よ」
こちらのゆうなはよく頭が回る。
俺らの想像できないことにまで気が回り、考え、懸念する。
俺の恋人のゆうながそうでなかった確証はないけど、でもゆうなの話を聞く限り、この特徴はこちらのゆうなだからこそのものなのだろうと思う。
自分の性的嗜好に悩み苦しんで思考し続けて、自分がどうあろうかたくさん考えたゆうなだから、誰よりも思慮深く考えることができるようになったのかな、なんて想像する。
でも、そんなゆうなは空回りも多い。
俺はゆうなともちゃんとお別れを言いたくて声をかけただけなのに、前例があるからってそんな風に決めつけられてしまってはかなわない。
そうした特徴も、悩み苦しんだ自分を守るために決めつけるようにしたが故のものなんだろう、と思うけど。
「違うよ。また改めて、ゆうなに感謝をして、それでお別れしようって思ったんだ。さっきも言ったけど、ここまでたどり着けたのはゆうなのおかげだ。ゆうなが助けてくれなかったら、時間内にここに来れたかどうか……。大袈裟だけど、ゆうなは命の恩人だよ。ありがとう」
「ふふ、本当に大袈裟ね。そんなに大それたことをしたつもりはないわ」
首を横に振り、俺に優しい笑顔を向けてくるゆうな。
少し離れたところから見上げるそれは、見る角度こそ違えど、懐かしいと感じるそれと重なるように見える。
「私ってすごく頑固だから、たぶん今日起きたこと丸ごと夢だとか言って、現実にはなかったことだって思い込むと思う」
そういえば、“裏側”に来る前にもそんなこと言ってたっけ。
「それはもう私の性分だから変えられないけど……でもね、きっと良い夢だったって思う。そう思うわ。だって、あきらのおかげで明日が楽しみだからね。あきらのおかげで自信が持てた。あかりともっと話し合うことにする。お互いのことを知れて、二人のことを話し合えば、もっと深く付き合えるはず。うん。きっと、幸せになるからね」
自身を持てたと言われて思い返すのは、昼間の通学中に喧嘩別れしてしまったときのこと。
ゆうなだって不安がっていた。
俺が悩んでいたようなことを、ゆうなだって恐れていた。
俺にとってゆうなは可愛らしい女の子でとてもそうは見えなかったのだけど、今ならわかる。
ゆうなは自覚があったから、不用意に発言した俺の言葉に過剰に反応してしまったのだろう。
でも、ゆうなが言ってくれたそれは、俺のおかげなんかじゃない。
ゆうなもあかりも、二人がそれぞれよく考えていて、相手のことを慮っていたからだ。
俺もそうだったらな……と思う。
いや、羨ましがって腐るのはやめだ。そうじゃない。俺はそこで止まっていない。
そうだったら良いなと思うのは本心で、じゃあそうなれるようにやったら良い。
それは、あかりとゆうなから教わったことだ。
あかりとゆうながその気なら、俺だって頑張ろう。
そんなことを思っていると、頭によぎる……というか視界に入ってくる人がいる。
ゆたかだ。
俺とゆうなを眺める目は遠く、呆けているようでもあり、慈しむようでもある。
そんな俺の視線に気づいたのか、ハッとした様子でゆたかが我を取り戻す。
「ああ、私のことは気にしないで。その、改めてあかりたちの関係性を直視してしまうと、どうにも心が落ち込んでしまってね。いや、わかってたんだよ。わかってたんだけど、幸せになるのかぁと思ってしまって……」
身振り手振りを慌ただしく、困ったように眉尻を下げて笑うゆたか。
「私はゆうなたち二人の関係、いや、少しややこしいけど三人の関係とは関係ないから――」
「そうね。私はあきらと別世界で恋人だけど、菅原さんだけただの友達だからね」
ゆうながゆたかを見上げ、得意げに鼻を鳴らす。
そんな言い方は……と出かけた声は、小さく吹き出したゆたかの声に止められた。
「はは、やっぱりゆうなはそういう子なんだね。いや、本当にその通りなんだけど、そんなに敵意を向けなくても良いじゃないか。私もできてなかったけど、ゆうなのそれもさっきの言葉に反するものじゃないかな?」
「そうだけど、菅原さんに対しては嫌よ。中身があきらだったとは言え、菅原さんはそれらしい理由をつけて浮気させようとしたのを忘れてないからね。油断できないわ。もう手出しされないように、はっきりさせておかないとね」
「うぐ。そ、それは……」
そう言えばそうだったな、と当事者の俺が笑うのは変だろうか。
あれだけ流暢に喋るのが得意だったゆたかが、こんなにも具合が悪く押し込められてしまう様を見るのは不思議と面白い。
思わず俺が声をあげて笑ったのを、二人に見咎められた。
自分より大きな二人の視線には怯んでしまうけど、少しは慣れたつもりもある。
「あのときは、男性の菊地原先生から「レズビアンについて学べ」って言われたのを実践しようとしてたよな。思い返すと、ゆたかにうまく誘導された気がするよ。俺も悪いんだけどさ」
「本当よ。あかりも言ってたけど、あきらが流されなかったら私だってあんなに怒ることなかったんだからね」
「うん、そのときは本当にごめん」
「改めて私も謝るよ。ごめんなさい」
二人で頭を下げ、様子を見るように顔を上げると、ゆうなにも笑みがこぼれていた。
「許すわけじゃないけど、もうあきらとはこれっきりだしね。もちろんあかりにも責任はないし、この夢が覚めた後は菅原さんだけにあたることにするわ」
「えぇ……私だけなのかい?」
「それは譲らないわ。菅原さんがあかりに近づいてるところを見かけるたび、追い払ってやるんだから」
「反省してるから、私の友人関係まで奪わないでくれよ……」
はたから見るとゆうなは冗談半分に言っているように見えるのだが、ゆたかはわりと本気で悲しそうな顔をしているのがまた面白い。
面白い反面、ゆたかを可哀想だと思うのは、そうさせてしまったのは流された俺の責任もあるからで。
どうにかしてあげたいとは思うのだけど、今日で得た経験からゆうなは頑固なことを知っているので、どうにも難しいかもしれない。
そんな一方的なやり取りに満足したのか、ゆうなは一回大きく頷き、俺を見る。
「それじゃあ、私も帰るね。あかりが先に目覚めて、彼女の私がまだ起きてないってなったら可哀想だもの」
彼女の私が、というところを強調してゆたかに言って聞かせるので、ゆたかと俺は苦笑するしかない。
調子に乗ったゆうなはとても良い性格をしていて、それもまた俺の知るゆうなとは全然違う性格なのだけど、こちらのゆうなはそれくらいがちょうどいいのかもしれない。
自ら笑える話に持っていける度量に、ただ感心する。
「たしかにそうなったらあかりは寂しがるかもな。あかりは何日もここで彷徨ってたって言ってたから、数日ぶりの目覚めにゆうながいなかったら泣くかもしれない。あの体にいた俺だからわかるけど、あの体は泣き虫だぞ? ゆうな、あかりのことをよろしくな」
「もちろん」
ゆうなは自信たっぷりに頷いてみせる。
それから栗色の柔らかな髪を揺らし、俺に手を振りながら門に向かって歩き出す。
と、振り返り、後ろ歩きに門へ進みながら、また俺へと声をかけてきた。
「あきら。もう大丈夫だと思うけど、そっちの私のことは悲しませないでよ? 私とあかりみたいに仲良く元気でやってね。じゃあ……またね」
そんな言葉を残し、ゆうなも門の敷居を超え、光となって消えていった。
あかりと同じように、途端に姿が薄くなり、ここからは見えない門の向こう側――元の世界に帰ったのだろうことを彷彿とさせる。
またね、なんて言葉をゆうなが使ったのは、どんな意味があったのだろう。
可愛く柔らかな印象が強かったゆうなは、こっちでは強く聡明で。
そんな彼女が明朗な様子で去り……胸を締め付ける感情を強くなる。
少しだけ息が吸いづらくなった心地がして、意識的に強く息を吐き出した。
「ゆうなも、行ってしまったね」
そう呟くゆたかの表情は、先ほどまでゆうなにいじられていたものとは遠いもの。
俺に向ける視線は慈しむようで、これから別れる友人の感情が伝わるようでもある。
「私もそろそろ行こうか」
しかし、惜しむ時間はないとゆたかは言い、踵を返して門に向かい始める。
「あ、ゆたか――」
そう声をかけてしまったのは、あかりとゆうなほど言葉を交わせなかったから。
心ないことを言ってしまった後悔もある。
俺の声にゆたかは振り向き、さっきまでと同じように優しい視線を向けてくる。
「つい、ゆたかを責めるようなことも言っちゃったけど、ゆたかに感謝してるのは本当だから。ゆうなが言ってたみたいに、俺がもっとしっかりしていれば良かっただろうし……」
「ふふ、あきらは優しいね。それは私の罪として背負い、ゆうなから罰を受けていく話だよ。ああでも、あかりに近づけなくなってしまうのは本当に寂しいね。もしあきらがその状態で、あかりと一緒に私たちと来れたら良いのに」
「それは俺があかりの姿だからだろ? ゆたかは、あかりの見た目だったら俺でも良いのか?」
「中身も含めてさ」
ゆたかは不敵に笑う。
しゅっとした佇まいに切れ長の目がそうすると、思わずドキリとしてしまう魅力がある。
「あきらとは、今日知り合ったとは思えないくらい心地良い関係だと思っているよ。そちらの世界の私があきらと友人なのもよくわかる。本当に、お別れするのが惜しい」
「俺も、だよ」
惜別の情と言うのだろうか。
あかりが先に戻り、ゆうなも続き、胸に重く響くいたたまれない感情。
三人は門から戻った先でまた会えるけど、俺は違う。
こんなにも良くしてくれたみんなと、もう会うことができない。
それは望んでいたことでもあったはずなのに、その側面で考えると……考えてしまうと……。
「あきらは泣き虫だね」
「まだ、泣いてねえし……」
呼吸が浅くなり、目頭が熱くなってきている自覚はある。
ゆうなに言われたからあかりの体のままでいたけど、この体のまま耐えきるのは至難だろう。
でも、ゆたかにもこの体のまま、ちゃんとお別れをしたい。
俺は奥歯を噛み締めて前を向き、ゆたかの顔を見上げる。
「ゆたか、ありがとう。最初から最後まで俺のことを信じてくれたのはゆたかで、ゆたかがいなかったら俺はダメだったと思う。ゆうなにも言ったけど、ゆたかも俺の恩人だ。本当はゆたかにちゃんとお礼をしたいところだけど、それもできなくて悔しい……」
「おや。ということは、お礼としてこの場であきらを好きにして良いのかい?」
「そ、そういうところだぞ」
「冗談さ」
したり顔で笑うゆたかを見て、俺も笑う。
さっきゆうなに言われたことを気にして、それを真似してやっているのだということも伝わってきて、どこまでも律儀なゆたかがおかしい。
おかしくて、ちょっとだけこぼれてしまう。
「あきらとこうしている時間は楽しいけど、いつまでもというわけにはいかないね」
そんなゆたかの言葉で、止めていた歩みが再開される。
ゆたかがそうしてくれたように、俺もできるだけ笑顔を作って頷き、ゆたかを送り出す。
あかりとゆうながそうしてきたように、ゆたかもみそら先生の作った巨大な門に向かって歩き出した。
ゆたかは俺と同じようにイメージをすぐに習得できなかったからだろうか。
門を前にしたゆたかは立ち止まり、静かに一つ呼吸していた。
その後、晴れやかな顔をしたゆたかが振り返る。
「そうだ。今日一日、言い忘れていたことを言って、お別れにしよう」
そんなことを言い出すゆたかに、俺は首を傾げる。
思い当たることがないのでただゆたかを見ていると、ゆたかは切れ長の目を細め、笑みを深めてこう言った。
「あきら、誕生日おめでとう。どうか、向こうに戻っても元気で――」
*
「……行っちゃった、か」
三人が門をくぐり、元の世界に戻って行った。
みんな無事であったことを喜ぶべきなのだろうけど、胸には穴が空いたような空虚さ。
あとは俺が帰るだけなのに、何か忘れ物をしてしまっているような気持ちになっている。
でも、それは見つからない。埋まることはない。
パチン、と隣に立っていたみそら先生が指を鳴らす。
その音が響くと同時、三人を送って役目を果たした正面の門が花びらの集合体となり、弾けて消える。舞う大きな花びらたちは綺麗で、儚い。
残るのは俺とみそら先生と、二人のための背後の門。
見渡す限りのカサブランカの花畑が、風もないのに優雅に揺れている。
ふと、視界の端に“あれ”が見えた。
いびつな球体状のそれは、花畑の一部を刈り取るようにして出現していた。
距離は遠く、小さく見える程度。
もしこちらに移動してくるようなことがあっても、それまでに門をくぐれば十分に間に合いそうに見える。
しかし、それが見えたということは、急がなければいけない。
もう惜しむ理由もないのだから。
「俺――」
でも、もう少しだけ、ごちたい気持ちがあった。
「ここに来るまで、正解から遠回りばっかりしてました。そもそも正解なんてまるで見当もつかなかったから、今だから言えることなんですけどね」
頭の中の想像を固め、イメージする。
するすると身長が伸び、視点が高くなっていく感覚。
体に力が入るようになり、煩わしく思えた髪は短く、体を包む服は面積を増やし。
「言われて、思い出しました。俺、今日が誕生日だったんですよ。迎えた瞬間から、その日が終わるまでが長かった。今はこんなところにいるんで、体感的にはちょっと延長してるんですけど。それでも、一日とは思えないくらい多くのことがありました」
声は低くなり、さっきに比べて喋りづらくなるような感覚もある。
でも、ちゃんと認識すれば、それはいつもどおりだったこと。
横を見ると、今の俺よりは身長の低くなったみそら先生。
満足そうに笑い、俺の話を聞いてくれている。
「さっきも言ったんですけど、男性の菊地原先生には、最初に「レズビアンについて学べ」って言われたんですよ。それでゆたかを引き連れて自分の家に行って、戻ってきたゆうなと会って一騒動あって。たくさんのことを話して、感情をぶつけて、振り返って。結果、そのどれも全然関係なかったんで、笑っちゃいますよね。これも、今の俺だから言える話なんですけど」
なんで俺はこんな話をしているのだろう。
我に返る俺がいて、まだ話していたい俺もいる。
自覚して、理解した。
俺は、惜しんでいる。
「見当違いだったとしても、ないよりよっぽど良かった。誰にも助けてもらえない俺だったら、ただ立ち尽くして、ここが“無の壁”に覆われるまで何もできなかったかもしれません。みんなが助けてくれたから動くことができて、偶然だったかもしれないけど、ここにたどり着くことができました。だから、男性の菊地原先生にも感謝してるんです。本人に言えないのが残念です」
助けてくれたみんなが去ってしまった後でも。
この記憶が消えてしまうのが怖くて、しゃべって、刻もうとしている。
馬鹿だな、と自嘲する。
遠くとも、あの“無の壁”は近くに見えている。
ふとした瞬間、目の前に出現して消されてしまうかもしれない。
そう考えて、震えたくなる恐怖はあるはず。
なのに、口は止まらない。
たぶん最後が“ここ”だから、忘れてしまうことをもっと恐れている。
「そう、偶然で思い出したんですけど、男性の菊地原先生はもう一つ言ってました。俺に起きた出来事――みそら先生の言う“玉突き事故”がただの偶然だったとしたら、それは最悪のケースだって。そうだったらもう元の世界には戻れないだろうって。世界膜なんてものも見えるところになかったし、振り返ってみるとあの先生、意外と適当だったかも……?」
「さて、本当に偶然だったかな?」
不意に、みそら先生が問う。
ただ聞いてくれていたみそら先生からの声に、俺は驚いて声が出ない。
でも、みそら先生は俺の返答は期待していなかったよう。
目を伏せ、口端を上げながら軽やかに言葉を続ける。
「これは私の所感だが、どうにもあきら君の来訪は偶然と言うには出来すぎている気がしている。結果論とは言え、まるで君たちに足りていなかったピースを埋めたかのようになっただろう? 出来すぎた偶然を、人がなんて呼ぶか知っているかね? さて、きっかけは偶然と言える事故だったかもしれないが、連鎖して起きたこれはどこまでが偶然で、どこからが偶然ではなかったのだったのだろうね」
みそら先生が目を開け、俺を見る。
深い色合いの瞳がまっすぐ見抜き、白目とのコントラストが印象強い。
手品師か道化のように振る舞う姿を多く見てきたからか、その真剣な表情は見慣れない。
ドキリとして、どこか別人にさえ見えてしまう。
「俺がレズビアンについて知ろうとしたのは、偶然じゃなかった……?」
「いやなに、断言するものではないよ。私は持論を補強したかっただけ――ふふ、男性の私のことさ。直接的な関係だけが原因究明に繋がることではなく、それで得られた過程が結果に繋がったのだから、決して無駄ではなかったはずだ。それは、あきら君自身が言ったことだろう?」
無駄ではなかった。
遠回りだったとしても、それは本心から思うことだった。
頷く俺に、みそら先生も頷く。
みそら先生が伸ばした手は、片方は俺の手を握り、もう片方で俺の肩を叩く。
細く柔らかな手は、俺を励ますような動き。
「その通りさ。大丈夫、無駄なことなんてない。たとえ場所が、あるいは時が忘れさせてしまっても、しっかりとあきら君に根付いているよ。あきら君は体験者だ。忘れることと消えてなくなることは違う。だから大丈夫だ」
みそら先生は、俺の手を握っていた方の手を引く。
その動きに俺は抵抗する間もなく、みそら先生の方へと引き寄せられる。
肩同士がぶつかり、その前に大きく盛り上がるみそら先生の胸が柔らかいことを知り、何をするのかと慌てる俺に、みそら先生は顔を寄せる。
俺の耳元、囁くような声で。
「あきら君のおかげで私もこちらに来れて、良い体験をすることができた。ありがとう」
「え……?」
聞き返すことは許されなかった。
引き寄せられた反動を使って、みそら先生は俺を突き飛ばす。
押す力は思っていたよりも強く、想定外だったこともあって、俺は大きくのけぞってしまう。
それは、門の方へ。
くぐるだけの十分な距離を。
あ、でも、え、でもない声を出して手を伸ばしても、みそら先生には届かない。
伸ばした手は空を切って、転ばないように踏ん張った足は後ろへ。
押し出された勢いに負け、後退りする俺が最後に見た光景。
「さあ、帰りたまえ。あきら君の一日だけの冒険記はここで終わりだ。その思い出を糧に、健やかな人生を送れることを願っているよ――」
実に愉快そうに笑い、俺に向けて手を振るみそら先生の姿があった――