大きくなって逃げましょう
「や、やばい……!?」
“無の壁”がある。
俺たちの目の前に、見えずとも存在する。
視認できない、でも触れるだけで存在を消すもの。
「――みんな、逃げよう!」
ゆたかが声をあげる。
俺とゆうなはすぐさま頷き、おののいて動けないあかりの手をゆうなが引く。
ホワイトボードのあった場所に一番近かったのは、ゆたかだった。
それは誰よりも現れた“無の壁”に近いということであり、逃げる俺たちの最後尾になる。
ゆたかに促され、俺を先頭にしてゆうな、手を引かれるあかり、最後にゆたかが続いて走り出す。
逃避。
俺たちは見えないそれから逃げ出す。
この場にみそら先生はいない。
推測される可能性は、とても後ろ暗いもの。
しかし、それを嘆いている余裕は今の俺たちにはない。
白だけに染まった世界で、走る俺たちはどこへ向かえるのか。
あてもなく、ただ遠ざかるためだけに駆ける。
俺の体はあかりのそれになっていて、前に進むにはか弱すぎる。
小さく柔らかい足ではまどろっこしく、しかし走りながら変身する余裕はない。
息が上がり出し、しばらく走ったあたりで後ろを走るゆうなからの声がかかる。
「あきら、どこまで行くの?」
「わ、わかんねえよ! とにかく逃げないと……!」
「でも、この先にもあれがあるかも!」
「あ……!」
ゆうなの声にハッと我に返る。
慌てて止まるために速度を落とすと、背中に強い衝撃。
急に走るのをやめた俺の後ろにはみんながいたわけで、声をかけてきたゆうなはあかりを引き連れて避けてくれたが、さらに後ろから追ってきていたゆたかがぶつかってきたよう。
どん、と俺の背にゆたかが突っ込み、そのままもつれて二人とも前のめりに転んでしまう。
『あ、あぶな……! 急に止まるなよ!』
「いっつ……! ご、ごめん、ゆたか」
「あ、ああ。いや、大丈夫だよ。あきらこそ、大丈夫かい?」
声を荒げたのは、ゆうなに導かれて俺の横を抜け回避したあかり。
言われる俺は、ぶつかってきたゆたかに背中の上から覆いかぶさられている状態。
幸い、俺が先に転んでその上にゆたかが来た構図のため、ゆたかは俺をクッションにできたらしい。
また、俺もそこまで強い痛みはなく、ゆたかにのしかかられているも身長のわりには軽い重みしかなく、自覚するところでは無事だった。
もう一度ゆたかに詫びて、俺の上からどいて立ち上がったゆたかに続き、心配そうな表情のゆうなと焦っている様子のあかりへと向き直る。
「ごめん、ゆうなの言うとおりだ。走った先にまた“無の壁”があるかもしれない……」
振り返り、さっき存在を確認した“無の壁”の方を見る。
そこに見えるものはないため確証は得られないが、とにかく走って逃げてきたから、ある程度は距離が取れたはず。
しかし、ゆうなが言っていたように、脅威は去らない。
焦慮に駆られるあかりが、ゆうなの手を握ったまま早口に言う。
『み、みそら先生は? あれが俺たちに近づかないように調べてくれてたはずだろ? なんでいなくなって……しかも、あれがあんな傍に……』
「わからない。でも、気づいたときには現れていて、きっとみそら先生は……」
みそら先生が“無の壁”が現れた状況を整理してくれたとき、俺たちは疑わなかったし、考えもしなかった。
それは外側から俺たちに迫ってきているものであるということを。
急に湧いて出てくるようなものではないということを。
言葉にして、自覚する。認識してしまう。
先ほどはみそら先生の分身で目の当たりにしたように、今度は本物のみそら先生が……!
「まだ、分裂した方のみそらさんたちはいるはずよ」
胸にくさびを打ち込まれたような思いを晴らすように、ゆうなは凛として告げる。
「私たちと一緒にいてくれたみそらさんが本物のように見えたけど、あの人が言ってたのを考えると、分裂した方も同じく本物のはず。だから、大丈夫。まだみそらさんはいるはず」
「そうか、その可能性は高そうだね」
少し呼吸の浅いゆうなに、ゆたかは大きく頷く。
「みそら先生を探そう。あきらが変身できたこと、“無の壁”が出現したことを伝えよう。そして、みんなで早く脱出するんだ」
ゆたかの進言に、みんな強く頷く。
しかし……俺は迷う。
続けるべき行動が思い当たらない。
白だけしか見えないこの空間で、どうやってみそら先生を見つければ良いのか。
改めて見渡しても、周囲には何も誰も見えない。
何も障害もない白一色の空間でこう見えるということは、途方もなく遠くにいるというわけで。
『と、飛んで探せば見つかるかな?』
そこに提案してきたのはあかりだった。
急に重力を感じさせない浮遊を見せるあかり。
それは俺が三回目にここに来たときにも見た飛ぶイメージによるもので、それを見たゆうなとゆたかは驚いている。
中空を浮くあかりの顔は俺たちよりも高い位置へ。
腰の高さほど浮き、素早い動きで左右に移動して見せる。
『俺、さっきも言ったけど飛べるからさ、きっとこっちの方がよく見えるし、走るより速いはず』
「でも、俺たちはどうするんだ?」
思い返すのは、俺が空を飛ぶ練習をして失敗し続けたときのこと。
あれはあかりの妨害イメージが作用していたのだと種明かしされているが、まだ俺はできた試しがない。
ゆうなやゆたかだって今が初見で、あかりは飛べたとしても、俺たちが伴えるだろうか。
『任せろ、俺が運んでやる。俺はイメージが得意なんだ』
そう言って宙を浮いていたあかりは大きくなる。
比喩ではなく、体の縮尺をそのままに巨大化していく。
作られた映像を見ているかのようにスムーズに大きくなっていくあかりの体。
元の倍を超えてさらに少し大きくなったくらいに。
あかりの幼い体の見た目はそのままに、それが三倍ほどの大きさになった巨躯。
飛んでいることもあって、あかりは俺たちを覆うような高さから見下ろしてくる。
『これくらい大きくなれば、みんなを抱いて飛べるだろ』
「ちょ、ちょっ……!?」
幾分も大きくなった声量で鼓膜を震わせ、あかりは俺たち三人の目の前に。
地に足をつけても、そこから重い音を鳴らして膝をつけてもなお俺たちより大きな背丈。
戸惑って動けない俺たちの左右から、丸太のようなあかりの腕が迫る。
それは言葉通り俺たちを抱くもので、俺は体の向きを変えられながらゆたかとゆうなに挟まれ、腹にはあかりの極太の腕。背にはあかりの巨大な腹、そして薄いけど大きな胸。
目を白黒させ、ゆうなが高みにあるあかりの顔を見上げて叫ぶ。
「あ、あかりっ!? ちょっと、焦らないで――」
「きゃっ――!?」
急激に掛かる圧。
体を押し下げるような重力と、挟み込まれた腹に掛かる圧力。
それはあかりが飛び立ったことによるもので、それを認識すると足が宙ぶらりんになったことに対する恐怖感が湧いてくる。
足場のないジェットコースターに乗っているようなものだ。
思わずあかりの大きく太くなった腕にしがみつく。
あかりが止まり、俺たちのことを気にかけたのは少ししてから。
周囲は白一色なので、飛んでいることによる景色の変貌はないが、体に浴びた飛ぶ感覚と時間を考えると、俺たちが立っていた地面が目測できないくらいの高さになったのだろうと思われる。
「あ、あか、り……!」
俺の左右で、同じように抱きかかえられて密着しているゆうなとゆたかも同じようにしがみついている。
ゆうなは顔を赤くして必死にしがみつき、ゆたかは逆に真っ青な顔で弱々しく。
両極端な反応を見せていることに気がついたようで、あかりは『あっ』と声をあげた。
『大丈夫か、みんな』
「だ、大丈夫じゃねえよ!」
あかりの声は真上から。
巨大な体に接しているため、背中からもビリビリ痺れるような振動として伝わってくる。
声だけで覆われているような強い感覚に頭を振るい、抗議のためにあかりの腕を叩く。
大きくなってもなお柔らかさのあるそれはペチペチと音を立てるが、あかりからすると痛くないレベルのものらしい。
それよりも、俺の行動によってゆうなとゆたかからの抗議の声があがる。
「あ、あきら……やめて……!」
「揺らさないで……」
「あ、ごめん」
ゆうなとゆたかも巨大になったあかりの腕に抱かれ、俺と同じように密着している。
三人を抱くあかりの腕はびくともしないが、それでも高所に連れ込まれて怖い。
肩を寄せ合わせられている俺たちは、あかりによって強制的に一心同体にされているようなものだった。
ゆうなが大きく首をそらし、あかりを見上げる。
頬は紅潮していて、息が荒い。
「あかり、お願いだから、ちゃんと了承とってからにして。もし、飛んでる途中にあれがあったら、あかりが消えちゃうのよ? 暴走しないで」
『あ……ごめん、ゆうな。でも、とにかく飛んだほうが安全だと思って……』
体が大きくなれば、それだけ顔も唇も大きく、声によって出てくる影響も大きい。
責められ、困ったように声をひそめる様子はわかるのだが、直接抱かれている俺たちには充分に大きな声で、まるで骨伝導しているように振動として伝わってくる。
ぬいぐるみか何かになったような縮尺なのだろう。
そのぬいぐるみに怒られ、しょげる姿を傍から見ればシュールなのかもしれない。
そんなあかりの様子を見て、ゆうなはやや慌てたようにフォローする。
「あ、でもね、あかりがみんなを抱いて飛べるのは良いことだと思うわ。前にあきらから聞いたみたいに規格外の大きさになったりしなければ、大きくなったことによってあの“無の壁”にぶつかってしまうリスクもそこまで高くならないと思うし、何より走るよりも効率的だと思うの。だから、あかりがしたことは間違ってないのよ。ただ、もう少しだけ落ち着いてほしいかなって」
『う、うん、気をつけるよ……』
背中からはあかりのしゃべる振動が伝わる感覚は慣れない。
今の俺はあかりの姿になっていることもあり、俺より大きいゆうなとゆたかに挟まれて密着していて、さらに誰よりも巨大なあかりに抱きしめられている状態。
しかも、かなりの高さまで飛んでいて地に足がついてない状態であることもあり、緊張感からか変な汗が出て、それによってあかりの腕から滑り落ちてしまわないかという恐ろしい考えが発汗を加速させてしまいそうになる。
とにかく怖い。あかりのうっかりミス一つで転落してしまう状況というのは実に肝が冷える。
ゆうなは少しずつ慣れてきたのだろうか。
先ほどまでより落ち着いてきた様子で、あかりを見上げて提案する。
「それじゃあ、さっき思いついたばかりのアイディアなんだけど、辺り一面に何かを撒き散らしながら移動しましょう。みそらさんが花を置いて存在確認したみたいに、撒いたものが消えた場所があれば、そこにあれがあるんだってわかるじゃない? 見えないものに対して、そうやって視認性を上げたらきっと安全に移動できるはずよ」
「い、良いアイディアだね、さすがゆうなだ……」
一方で、ゆたかはずっと顔を青ざめさせて怯えている。
俺たちをまとめて抱きかかえられるほど大きく太くなったあかりの腕に、見てわかるほど力を込めて抱きついていて、表情もとても強張っている。
話している内容こそ気丈に振る舞おうとしているのがわかるが、あまりに必死な様子が少しおかしい。
『あ、花か。たしかにそれなら見てわかるから、避けることができるな。なら――』
そう言って、抱きかかえていた俺たちを見下ろしていたあかりは正面を向く。
それ、なんて軽い掛け声で、俺たちの周囲に湧いて出たのは大量の桜の花びらだった。
前後左右、上下に至るまでの全面を覆い尽くす桜の花びらは、普通のそれと違って桜の木が生えているわけでもないし、花吹雪のように散り乱れているものでもない。
俺たちのいる中空を含む空間の中、ゆっくりと緩慢な速度で落ちていく花びら。
絶景とも言える光景が目の前に広がり、思いがけず息が止まる思いがした。
綺麗、なんて言って驚く俺たちの感情は、さらに上書きされる。
「うわ……っ!?」
一面に降り注ぐ桜の花びらの中。
俺たちの見える範囲、それもほど近いところに、いくつかの何もない空間――花びらが落ち、触れたそばから消え去る歪んだ球体のようなもの。
先ほど俺たちの前の出現したような、壁の形状ではない、“無の壁”がそこかしこに点在しているのが視認できたのだった。