やにわに
「はあっ!?」
素っ頓狂な声をあげたのは俺だが、そうさせたのはあかりの言葉だ。
あかりが犯人かもしれない?
しかも、思い当たる節があったかのように言い出すとは何事か。
「あかり、どういうこと?」
一歩前に出そうになる俺に対し、手で制したのはゆうな。
子供に接するように優しく、少しだけ腰を屈めてあかりに事情を聞く。
俺の反応にビクリと肩をすくめていたあかりも、ゆうなの顔を見上げ、小さく頷く。
『俺、俺さ、こんなことになるとは思わなくて……全然そんなつもりじゃなくて……』
「うん、うん、そうよね。大丈夫よ。あかりは悪くないわ」
要領を得ないあかりの言葉に、きっとゆうなもわかっていないのに擁護するようなことを言う。
やっぱりゆうなはあかりに甘すぎるが、とにかく怯える様子のあかりを落ち着かせようという意図も感じられるので、俺は逸る気持ちを抑えるしかない。
あかりはゆうなになだめられながら、頭をぽんぽんと撫でられるたびに頷く。
ゆうなの服の裾をぎゅっと握りしめて、小さく口を開く。
『あの……本当に悪気なんてなかったんだけど……俺、あいつ……あきらに、成功するなって願っちゃったことがあって……』
「そうなの?」
『うん……ほら、あの……さっき言ってた、あいつが三回目に来たってとき……』
ぽつりぽつりと萎縮しながらしゃべるあかりの言葉は、まとめると次のようになった。
俺が“裏側”に来た三回目のとき、空を飛べるあかりのようなことが俺にもできるのかとイメージの練習をしたときのこと。
直前のゴタゴタもあり、やり方はそれとなく教えるも、孤独に耐えながらようやく見つけた特殊な力を俺が使えたりしたら悔しいから、練習を始めた俺に対してあかりは思ったらしい。
ずーっと失敗したら良いのに、と。
「お前なぁ……!」
『だ、だってさ、たしかに思うだけで変身できたり空飛べたりできたけどさ、思っただけで邪魔しちゃうなんて思うわけないじゃんか』
早口に言い訳をまくし立てるあかり。
ゆうなはそんなあかりをかばうように俺との間に体を入れ、あかりの背を撫でている。
俺の隣に来たゆたかが、肩を叩いてくる。
ゆたかを見上げると、困ったような呆れたような表情。
「まあまあ、あきら。今あかりを責めたところでどうにもならないんだから」
それでも溜飲が下がらず、ゆうなの体の影に隠れるあかりを睨みつける。
思い返されるのは、あかりに指導を請い、空を飛んだり変身することに失敗し続けた三回目の練習時間。
あかりは悠々自適に空を飛び、できない俺を両方の意味で見下し続けたあの時間。
あのときにあかりは俺に呪いをかけ、その後に膨大にかけたイメージ練習を経た今に至るまで邪魔をし続けていたのだと言う。
あかりが犯人――
それは本人の自白があったし、あのタイミングでそう思ったのならゆうなが言っていた話とも整合性が取れるし、間違いないだろう。
第三者の悪意ある人物はいなかった。
それは良い。それは良いが、良くない。なにも良くないのだ、俺にとっては。
あんな、試しにあかりと同じことができるかどうかをやってみたあれだけの時間に、あかりはそんなしょうもない気持ちで俺がイメージに失敗し続けるようイメージしてきた。
悪気はなかったと言ったが、充分に害意だ。
俺が失敗し続けることにどれだけ焦り、嘆き、みんなに迷惑をかけていると思って苦心したと思っているんだ。
あかりの幼稚な感情さえなければ、無駄な時間を過ごすことはなかった。悩むことはなかった。そう思うと腹立たしくて仕方がなくなる。
「どうにもならないのはわかるけど、納得できないじゃんか。あのときからそうだったんなら、もっと早く言えよ。俺、ずっと練習してたのに」
『うっ……つ、ついさっき気づいたんだよ』
一段とゆうなを盾にして隠れるあかり。
ゆうなの肩辺りから顔を少しだけ覗かせ、長いまつ毛を伏せる。
『ついさっき、みそら先生が言ったのを聞いて、そういえばそんなことを思ったな……って思い出したんだよ。それまでは本当に忘れてて……というか、覚えてたとしても心当たりにもならなくて……』
「だとしてもさぁ……!」
なんだろう、この徒労感は。
俺がこれまで積んできたイメージ練習の時間。
想定していなかった“無の壁”という恐怖に立ち向かい、それでも俺のために残ると判断してくれたみんなの覚悟。
それを受けて感動した俺の気持ち。
すべてが台無しになったようで、酷くささくれ立つ感情が胸を占める。
それを収めるには時間が必要で、いくらゆうなやゆたかが間に立ってくれてもなかなか落ち着くことはできなかった。
*
「さて、そろそろ話を進めようかな?」
怒りの感情はとても体力を使うものらしい。
憤りとやるせないのがまぜこぜになって息を切らしているのにも疲れて、俺はすっかり重くなった肩を落としていた。
そんな折に、ずっと俺たちに関することなく笑いを堪えていたみそら先生が声をかけてくる。
「あかり君は反省し、あきら君も気が済んだだろう。こういうのは無理に抑え込むのではなく、思うがままに発散させたほうが良い。いくら無駄な時間を使えない状態だろうとね」
「あ……」
みそら先生に言われて気づいたのは、俺たちが時間に追われていること。
先ほど見た“無の壁”に迫られ、一刻でも早くそれぞれの元の世界に戻らないといけない状況にあったことだ。
「す、すみません、つい……」
頭に血が上ってしまっていたこととは言え、もとを正せばあかりのせいとは言え、みんなは俺のために残ってくれていたのに、俺がぎゃあぎゃあ喚き散らしているために時間を使わせてしまった。
そのことに気が付くと、先ほどの苛立ちよりもみんなへの申し訳なさが強くなる。
「いいや、いいのさ。思いがけないカミングアウトだったんだし、それに動揺している状態では先に進めなかっただろう。原因を突き止め、真実に驚いた後には必要な時間だったはずだよ。気にしないでくれ」
みそら先生は軽く手を振り、何でもなかったことのように振る舞う。
あっけらかんとしている表情からも、本心でそう思っているのだろうことが伺え、安心する。
そこに「あの……」と小さな声で差し込んできたのは、ゆうなだった。
さっきはあかりをかばうように寄り添っていたが、今はすっかりうなだれたあかりから一歩程度の距離を置き、胸の前で組んだ手の指をいじりながら口をとがらせている。
「さっきは……すみません。何も悪くないみそらさんを、私の勝手な妄想で疑ってしまいました」
「繰り返しになるが、気にしないでくれ。先に言ったとおり、あれは私がゆうな君の信頼を築けなかったことにも由来しているからね。ゆうな君も問題解決のために必死だったのだから、選択に誤りはないよ。それに、ふふ、私としては愉しませてもらったからね」
いじらしい態度のゆうなに対しても、みそら先生は軽く笑って首を横に振る。
それでもゆうなは食い下がるようにみそら先生を見上げたが、毒気のないみそら先生の顔を見て、口をつぐんだ。
そんな様子を見て、さっきまで俺をなだめてくれていたゆたかは「大人だね」とつぶやいていたが、本当にそう思う。
「ではあかり君、いいかな?」
『は、はい……?』
膝を抱えてうなだれていたあかりは、みそら先生から声をかけられて顔を上げる。
唇が妙に赤く見えるのは、噛み締めていたからだろうか。
「あきら君にかけたイメージを、彼が失敗するように望んだイメージを解いてほしい。やってくれるかな?」
『も、もちろんです。……あ、でも、やり方、わかんないですけど……』
「やったことの逆をやれば良いはずだよ。と言っても、失敗を願ったときはほとんど無意識だっただろうね。私にも経験のないことだから、トライアンドエラーで試してみようか」
みそら先生はあかりに向けて手を差し伸べ、しゃがみ込んでいたあかりを立ち上がらせる。
あかりは素直に従って立ち上がり、みそら先生の誘導されるまま、俺の方を見上げてくる。
一瞬だけ目が合ったが、すぐにあかりの方から逸らされた。
『……っ。……ごめん』
ほんの少しだけ、耳に聞こえてきたのは小さな謝罪。
俺の気持ちが落ち着いていなければとても聞こえていなかったであろう微量な声で、目を逸らしつつ、あかりは口をとがらせていた。
「あー……いや、大丈夫。ムカついたけど、もう直してくれればいいや」
『お、おう……』
当たりが強くならないように細心の注意を払うと、なんだか喉の奥がむず痒くなる。
あかりが気まずそうに頷くのを認め、みそら先生はまた小さく笑った。
「それじゃあ、解除作業の始まりだ。これからはスムーズに進むと良いね」
そんな言葉が現実のものとなる。
数度、あかりが俺に向けて念じるのを繰り返した後、俺は変身を試みる。
――そして、成功する。
今の俺は俺自身の体になっているから、誰でも良いから別の体に、と言われて、自然と意識してしまったのは悔しいことにあかりの体。
たった一日でも記憶に染み付いてしまった感覚に頼ることにしてみた挑戦は、先ほどまで脳内に立ち込めていた霧を追い払い、形になる。
しゅるしゅると体が縮んでいく感覚。手足から力が抜け、頼りなくなっていく感覚。髪の毛が暴力的なまでに伸びて頭皮が引っ張られる感覚。
変化していく過程こそ慣れないものの、それが終わればもはや勝手知ったる小さな体――あかりの体への変身ができた。
みそら先生の誘導なしにできた……!
そう、あれほど苦労して悩んだ俺のイメージは、原因を紐解くことでいとも容易く成し遂げられたのである。
胸に渦巻く感情は多くあれど、それを表に出すのはもう疲れていた。
ひとしきり包むのはようやく達成できた安堵感で、自分の体があかりの薄く小さなものになったのを眼下に認めたときには、俺は尻餅をつき、白いだけで何も見えない空を仰いでいた。
胸を満たす空気は冷たくもなく、温かくもなく、でも充実感に満ちたもの。
「良かった……。これで元の世界に戻れる」
「そうだね。良かったよ、あきら」
仰ぎ見る光景の中に、腰を曲げて覗き込んでくるゆたかの顔。
合わせてゆうなとあかりの顔も覗き込んでくるのが見えて、自分でもわかるくらい緩んだ顔になった。
こうして、あれほどできずに悩んでいた俺のイメージの習得は成した。
それはあかりの不用意な気持ちによって妨害されていたもので、それを認識し、取り除けばなんてことはなかった。
もしかしたら、これまで積んできた練習の成果が今になって発揮されたのかもしれないし、そうだったらあの時間は無駄にならないな、なんてことを思うけど、真相はわからない。けど、それでもいいや。
人心地がつき、ふとみそら先生のことが気になった。
先ほどあかりからの妨害イメージを解除しようと声をかけてくれて以降、そういえばみそら先生からの反応がないことに気がつく。
あれ、と思ってさっきまでみそら先生がいた方向に首を向けると、そこには誰もいない。
――そう、いない。
前後左右、思い当たって上や下までくまなく見渡してみたけれど、みそら先生の姿がない。
「あれ、みそら先生は?」
どこに行ったのだろう。
何の気なしに問いかけた言葉だが、みんな揃って首を横に振る。
全員心当たりがないようで、急にいなくなったみそら先生を探して周囲に目を向けたとき、ゆうなが「あっ」と小さく声をあげた。
「ねえ、さっきまでそこにホワイトボード、置いてあったよね?」
ゆうなが指差したのは、たしかに俺の記憶でもホワイトボードが置いてあったところだ。
先ほど、みそら先生が俺たちに迫る“無の壁”のことを整理し、説明するために用意したそれが、みそら先生と共に消え去っていた。
ぞくり、とした悪寒が背筋に走る。
胸の内からこみ上げるような怖気が喉を詰まらせる感覚。
いない。消えた。
それは、いつ?
その感覚は全員に共通するものだった。
みんなが引きつらせた顔を見合わせたのは一瞬。
誰よりも行動が早かったのはゆうなで、スカートのポケットから取り出したハンカチを、その“消えた空間”へと向かって放り投げる。
何もない、ただ白いだけのその場所。
そこにふわりと放られたゆうなの淡い色合いのハンカチ。
ほとんど飛距離のないそれが地面に触れるかどうかというところで――消えた。
「ぁ――っ」
確認したのと同時、体がぶるりと震える。
見えないのに、そこにあるのがわかる。
――“無の壁”が、いつの間にか俺たちの目の前に出現していた。