補助輪走行
それから始まった特訓。
まずは俺の状況を確認するところから始まった。
先ほどまでの練習では、ひたすらみそら先生や成功しているゆたかのイメージする方法を聞き、それを模倣しようと努力してきたが、そのアプローチでは結局うまくいかなかった。
他の、例えばスポーツなどの練習と違い、イメージの成否は結果にしか現れない。
俺の頭の中でしか途中はなく、ともすれば何をどのように間違えたのかが見えてこない以上、それをどうにかしてみんなに伝えるのが優先された。
あの“無の壁”が迫っているかどうかは、分裂したみそら先生が教えてくれる手筈になっている。
その仮の安心感を根に、俺たちは腰を据えて特訓に取り組むことにした。
「それではあきら君、試しにもう一度イメージしてみようか。自分自身の、本来の肉体に戻るのをイメージしてごらん」
「はい、わかりました」
俺は首肯し、目を閉じる。
特に優秀なあかりなんかは目を閉じなくてもスムーズにイメージしてみせるのだが、俺は少しでも集中するために視界を切る。
頭の中に思い浮かべるのは、男の俺の体だ。
あかりよりもずっと背は高くて、筋肉もそこそこあったから力もあって、髪はあそこに癖が少しついてて、と少しずつ固めるように想像を進めていく。
……が、急に霧散。
固まろうとしていた想像は風が吹いたように散り消えて、まとまらなくなってしまう。
「あ……ダメでした……」
何度もやった失敗。
七割か八割くらいの想像ができたくらいに、急に進まなくなってしまう感覚。
何度も味わったそれを再現し、苦い思いが胸を占める。
「構わないよ。それが前提の特訓だ。では、どこまでイメージできたんだい? 頭の中のことを伝えるのは難しいかもしれないけど、私たちにできる限りの情報をくれないかな?」
みそら先生の問いかけるニュアンスはとても優しい。
それがどうしようもなく痛く思うのだけど、お腹に力を入れて我慢して、俺はできる限りのことを伝える。
自分の体は思い出すことができていること、途中まではうまくいってそうなこと、そして急にそれが霧散してできなくなってしまうこと。
ちゃんと伝えられたかどうかはわからないが、一通りを話すと、みそら先生が腕を組む。
「聞く限りでは、たしかに途中まではできていそうだね。ただ、それが詰まってしまう原因か……」
言葉を切り、さらに深く考え始めるみそら先生。
その拍子に胸の下で組んでいた腕が狭まり、大きな胸を寄せる形になるのだが、きっとわざとではないと思うので俺は目をそらす。そんな場合じゃないし。
間を縫うように話しかけてきたのはゆたかだった。
「試しに他の体をイメージしてみるのはどうかな? あきらは、こうしてあかりの体になれているだろう? あかりの体になることはできたんだから、あきらの体以外になれるかどうかという観点で試してみるのはどうだろう?」
ゆたかが言うには、まずは原因を切り分けたいとのこと。
俺がイメージに成功したパターンと失敗したパターンの差異を挙げると、大きく二つ。
みそら先生の誘導があったかどうかと、自分の体に戻ろうとするかどうか。
この内のどちらか一方が原因であるならば、どちらによるものかをはっきりさせたほうが良いと言う。
「もし、あかりの体になれるけど自分の体に戻れないってことなら、あきらは自分の体をイメージしきるだけの自己観察が足りていないのかもしれない。そうだったら、さっきあかりはあきらの体になれたから、あかりにイメージしてもらって、よくよく観察してみたら良いんじゃないかな」
「な、なるほど……」
俺は俺自身の体のことを理解しているつもりだけど、それは俺視点で理解しているということであって、もしかしたら理解しているつもりになっているのかもしれない。
直近で言えば今日一日はあかりの体になっていたし、全く望んでいない形であかりの体のことを思い知らされることになった経験が立て続き、長年連れ添った自分の体よりもあかりの体の方をイメージしやすかった可能性も……という考えが頭をもたげてくる。
ゆたかの言うようなことはたしかに考えられたので、俺は素直に頷き、ゆたかを見る。
「じゃあ、ゆたかになってみるよ」
「どうぞ。できたら可愛く変身してくれたら嬉しいな」
ゆたかを可愛く……綺麗とか格好良くならわかるけど。
そんなことを思いながら、また目を閉じて、イメージを開始する。
ゆたかの特徴は、何よりもその身長。
たしかオカルト研究部の部室で会ったときに聞いたら百八十四センチって言ってた高身長。
すらっと伸びた手足に、薄くとも柔らかさの感じるスタイル。
顔や髪はさっきまで見ていた通りで……。
「……あ、ダメだ」
唐突に途切れる想像。
大枠としてのゆたかは想像できて、あと少しといった感覚を掴むかどうかのところで霧散する。
もう数度試してみたが、何回やっても失敗してしまう。
『じゃあさ、また先生に誘導してもらえば?』
今度はあかりからの提案。
『さっきゆたかが言ってたし、変身する体を変えてもダメだったら、残るのは誘導があるかどうかだろ? そっちもやってみれば良いんじゃねえの?』
特に思い当たる理由もないのだが、あかりに言われるのは無性に反発したくなる思いがする。
その溜飲を頑張って下げ、内容だけを考えればたしかに正しいことを言っているので、俺は頷く。
みそら先生も話を聞いてくれていて、すぐにその実験が始まった。
「それじゃあ始めようか、あきら君。目を閉じて、本来の肉体をイメージしてみよう。髪型はどうだったかな? 顔は? 鼻はどんな形だったか――」
みそら先生の誘導に従い、閉目した俺は頭に想像を膨らませる。
自分だけでやるよりもずっと明確にできている実感があり、成功しそうな予感がする。
「さあ、イメージできたかな? 私が数を数えおろして指を鳴らすと、あきら君は本来の肉体に戻ることができるよ。肉体が元に戻るイメージを維持したまま、私の声と音に耳を澄ませて――」
さん、に、いち、とみそら先生の声が聞こえ、すぐにパチンと指を鳴らす音。
それをきっかけに目を開けると、
「で、できた……!」
目を閉じる前よりも視線は高い位置へ。
白いワンピースだった服装はシャツとパンツに変わり、体の変貌と合わせてずっと頼もしい感覚を得る。
長く煩わしかった髪は短く揃い、顔に手を当てると、あかりのそれより幾分か無骨に感じるパーツに触れることができた。
「できました! 俺、戻れました!」
「そうだね、あきら君。これは良い兆候だ。先ほども誘導ありではイメージに成功したから、あきら君は誘導を伴えば成功できるだけの実力はあるということだよ」
「は、はい!」
出す声も太く低くなり、本来の俺のものに戻っている。
良かった、と心の底から強く思う。
みそら先生に誘導してもらうことは、たぶん自転車なら補助輪を付けている状態ということなのかもしれないが、とにかくずっとできなくて失敗し続けていたことを一回でも成功できたことは、気持ちをずっと軽く晴れやかにしてくれる。
「原因を一つ切り分けることができたね」
俺の気持ちに合わせてか、ゆたかは優しい笑顔を向ける。
ゆたかの身長はやはり高く、元の体に戻ってもなお向けられる視線は上から。
「あきらは自分の体に戻るイメージをすることはできる。ただし、それは誘導があってこそ。そういう原因だったんだね」
「うん、そうみたい。少なくとも誘導があれば、俺でもできるみたいで良かったよ」
俺は頷く。
最初にあかりの体に変身したときも、こうして元の体に戻ったときも、みそら先生の誘導があれば難なく成功することができた。
これによって示されるのは、単に俺一人ではイメージを成功させることができず、その能力が不足している、ということだろう。
ちょっと心がささくれ立つような情けないことではあるけど、補助輪を付ければできるのを繰り返していけば、いつかは自力でできるような期待感もある。
バネにするため、胸の内に悔しさを押し隠す。
『じゃあさ、みそら先生に誘導してもらいながら元の世界に戻ったら良いんじゃねえの?』
ふと、あかりからの提案。
言われて気づいた可能性は、続くみそら先生の言葉によって否定される。
「いや、それでは難しいはずなんだよ、あかり君。私が見送った“n-1のあきら君”は自分だけでイメージを操ることができた。逆に、そうなるより前は元の世界に戻ることができなかったんだ。タイミングの可能性もあるだろうが、成功した状態に近づけておいたほうが安全だろう。特に、今のように失敗が許されない現状ではね」
『そ、そうですか……』
みそら先生を前にすると、あかりの様子は随分と大人しくなる。
先ほどのゆうなの影に隠れ続けていた状況よりは好転しているものの、相対したときの緊張感はやっぱり残っているようだった。
しかし、あかりの提案では難しいというのは、気持ちが焦りそうになる。
あの“無の壁”を見た後だから、少しでも早くみんなで帰れる状況を作りたい。
こうしてみんな俺のために残ってくれたのだから、俺が是が非でも頑張らないといけない。
でも、頑張りすぎて空回りしてしまうのも良くない。
そんな思いがぐるぐると回り、気持ちばかりが急いてしまいそうになる。
『ま、それでもお前が俺の体じゃなくなったのは良かったよ。目の前でうじうじした俺がいるのって、気持ち悪かったしな』
俺の気持ちとは裏腹に、あかりは嫌味なことを言ってくる。
俺だって好きであかりの体でいたんじゃない、なんてことを言って返すが、少しだけ笑みが漏れた。
あかりを腹立たしく思う気持ちは、先に抱いていた焦りを少しだけ追い出してくれた。
でも、たぶんそれは意図的にやったことではないのだろう。
思わず笑ってしまった俺を、あかりは気味悪そうに引いているし。
そんなあかりの後ろから、ゆうながあかりの両肩に手を置く。
あかりの頭の上から覗くゆうなの顔は、ニヤついた表情。
「私としては、今のあかりより、中身があきらのあかりの方が実物と同じ見た目で良いけどなぁ。今のあかり、身長もおっぱいもおっきくなるように改変しちゃってるんだもの」
『う、うるさいなあ。さっき言われてすぐに戻しただろ?』
「あれ、そうだったのか?」
さっき戻したと聞いて、疑問。
俺があかりの体だったとき、まだ少しだけ俺より視線が高かったような記憶がある。
それはゆうなも同様に感じていた様子。
「本当に? 私のあかりセンサーは、まだ少しだけ改変を残してるって言ってるわよ」
『な、なんだよそのセンサー』
そこに困った表情を浮かべたゆたかが割り込んでくる。
「まあまあ、ゆうな。あかりを弄りたくなる気持ちもわかるけど、今は時間が大事――」
そこまで言って、ゆたかは言葉を切る。
そうしたのは、対するゆうなが自身の口に人差し指を当てたからだ。
ゆうなは口の端を少し上げ、思わせぶりな表情をしている。
頭上でやり取りをされているあかりは、ただ困惑してその様子を見上げている。
「実はね、そんな悪いあかりを使って、ちょっと実験したいことがあるの」
『お、俺を……?』
「そ。私の知ってるあかりはもうちょっとだけ身長が低くて、おっぱいはもっと小さかったのよ」
あかりの後ろから、ゆうなはあかりを抱きしめるように。
右手はあかりの頭に、左手はあかりの胸の上に。
突然そんなことをされてあかりはビクリと反応したが、それでやめるゆうなではない。
逃げ出そうとするあかりを容易く押し留め、なんてことのないように目をつむる。
――急に淡い光。
それはあかりの体から発せられ、予想していなかったことに驚くも、それに続いた光景にはもっと驚く。
淡い光に包まれたあかりの体が、縮みだしたのだ。
まるで先ほどゆうなが言っていたことを再現するように、ゆうなの右手が押さえているあかりの頭が少し下がり、左手が押さえている胸はするするとしぼんでいく。
光が消える頃には、見覚えのある体躯になったあかりがいた。
「あ、やっぱりできた。イメージって、人にも影響させることができるのね。ふふ、やっぱりあかりはこのサイズ感じゃないとね」
『ゆ、ゆうなぁ……』
その言葉から、恐らくあかりを本来の体に戻したのはゆうなの仕業なのだろう。
それを察したらしいあかりは恨めしそうにゆうなを睨むも、先ほどより見上げる角度がきつくなっている。
「ゆうな君、なにか考えがあるようだね?」
そこに入ってきたのはみそら先生だった。
対し、ゆうなは急にバツの悪そうな顔をする。
「あ、えっと……私、やっぱり性格悪いんで、勝手に考えちゃっただけなんですけど……もしかしてああきらがイメージするとき、何かに邪魔されてるのかなって」
「ほう」
「じゃ、邪魔?」
みそら先生の返答は関心の強い色。
それは俺も同様で、聞き捨てならない言葉に思わず食い入る。
続くゆうなの話は、俺がイメージに失敗し続けた原因についての推理だった。