壁を乗り越えるため
俺が足を引っ張っているのは明白だった。
誰よりも俺が成功しなくちゃいけないのに、俺だけが成功していない。
その事実を認識すると、体が震えそうになり、奥歯を噛み締めてしまう。
俺とあかりは“玉突き事故”の当事者だから、この“裏側”にいる理由がある。
しかし、ゆうなとゆたかはそうではない。
もし俺が三度目までの“裏側”で戻る方法を見つけていたら、いや、そうでなくともみそら先生とその段階で合流できていたら、“裏側”にゆうなとゆたかを連れてくることはなかった。
突如発生した“無の壁”という脅威。
こんなにも危ない状況に、彼女たちを巻き込むことはなかったはずだ。
みそら先生に選択を迫られたのはゆうなとゆたかだが、それは同時に俺にも問われるものだと思う。
ゆうなとゆたかの二人は、俺が巻き込んでしまった。
だから、危険があるとわかった以上、もう二人を付き合わせるわけにはいかない。
乾かないはずの喉に詰まる感覚を覚えながらも、俺は二人を見上げる。
「俺、大丈夫だからさ、二人は早く戻ってよ。ここから出れば、あの危ない“無の壁”ってやつから逃げれるんだし、俺にはみそら先生がいてくれるんだから、二人がいなくても何とかなるよ」
二人からの視線が体に突き刺さる思い。
俺と違って、ゆうなとゆたかは聡い。
今日一日の出来事でたくさん頼らせてもらったから、よくわかっている。
そんな二人からすれば、俺のしゃべった言葉など薄っぺらく響いているだろう。
自分の耳にすら空々しく聞こえたそれは、ゆたかに小さく笑われてしまう。
「みそら先生っていう強力過ぎるくらいの味方がいるから、そうなのかもしれないね。でも、そんな顔じゃあ説得力がないよ?」
「うっ……」
自分の頬に手を当てる。
鏡がなくても俺がどんな表情をしているかはゆたかの言葉を聞けばわかるし、その出やすさも今日一日でよく知っているものだった。
「みそら先生の言葉を借りるなら、私もあきらに愛着があるかな。世界を超えた友人関係って感じで、放っておけない気持ちが大きいよ」
「で、でもさ、そう言ってくれるのはありがたいけど……あの“無の壁”に触ったら、死んじゃうんだろ? ゆたかは怖くないのか?」
ううん、とこめかみを掻くゆたか。
「怖いという気持ちはあるけど、みそら先生が私たちを守ってくれている安心感の方が強いかな。それに……ちょっと言いづらいんだけど、あきらにはいろいろと迷惑をかけてしまったからね。それを抱えたまま先に帰るより、少しでも自己満足させてくれたほうが良いかな、って思うんだ」
ポカンとしてしまう。
ゆたかが言ったことの心当たりは、まあないこともないけど、かと言って、そんなことで俺に付き合おうとしてくれるのはどうなのか。
その内容を言わないでくれという意味なのか、ゆたかはあかりに見えないような角度で唇に人差し指を当て、しーっと小声で伝えてくる。
そんな様子に、思わず少し笑ってしまった。
「いや、まあ、うん……ありがとう。ゆたかを巻き込みたくないってのは本当だけど、正直、嬉しいかな」
胸の内から温かさが滲んでくるような気持ち。
申し訳なさとありがたさがないまぜになり、迷ったけど、謝るよりも感謝を伝えることにした。
それを受けてゆたかも小さく笑い、いいんだよ、と言って優しい顔を見せてくれる。
そんな中、困った表情を浮かべていたのはゆうなだった。
「菅原さんにそんなこと言われちゃうと、私が断りづらくなっちゃうんだけど……」
「おや、ゆうなは断るつもりだったのかい?」
「意地悪な言い方ね。あかりに全部バラしちゃおうかしら」
そんなことを言われてゆたかは焦り、急に名前が出てきたあかりは不思議そうな複雑な表情を浮かべている。
冗談よ、なんて言いながらも、ゆうなの表情は険しい。
眉根を詰め、その言葉を口にするが苦しそうな雰囲気で、俺に伝えてくる。
「その、やっぱり言いづらいんだけど……私はあかりを優先させたい。最初からあきらに協力していればとか、私がかき乱すようなことをしなければとか、菅原さんみたいに思うところはあるんだけど、ね」
言葉を受け、一呼吸。
その間を置いてから「うん」と俺は頷く。
じくりと胸が痛む気持ちはあるけど、ゆうなからすれば当たり前の選択なのだと思い、飲み込む。
ゆうなは俺の恋人だけど、目の前のゆうなはそうじゃない。
俺はあかりの体に入っていたから特別に扱われていただけで、目の前にいるゆうなの恋人はあかりなんだ。
頭で理解して、噛み砕いて、無理やり心に染み込ませる。
「えっとね、あきらに愛着がないわけじゃないの。みそらさんも菅原さんもあんな言い方するから、まるで私が悪者みたいになっちゃうんだけど、そうじゃないってことは理解してほしい。ただ、どうしても、優先順位が……」
「うん、大丈夫。大丈夫だよ、ゆうな」
わかってる。わかってるつもりだ。
言い聞かせるように、俺は何度も頷く。
「もし、ゆうなが俺の世界の、俺の彼女のゆうなだったら、彼女にそう言ってもらえたら嬉しいと思う。ゆたかにはいてくれて嬉しいとも言ったけど、先に戻ってくれるのも嬉しいから。ゆうなは、ようやくあかりとまた会えたんだもんな。時間内に間に合ったんだから、二人は早く戻ったほうが良いよ」
自覚できるほどの強がりと、自覚していなかった気持ち。
俺は一日あかりの体に入っていて、その間、あかりはこの“裏側”に閉じ込められていた。
そして、それはもしかしたら一日では済まなかったかもしれない。
そう考えると、体が震えるような恐怖心を覚える。
菊地原先生に時間制限の話を聞かされ、それまでに解決方法を見つけなければずっとあかりの体のままかと思って慌てたけど、あかりの視点から考えれば、ずっと“裏側”に幽閉されていたかもしれないということ。
いや、今の俺たちに迫る“無の壁”のことを考えると、きっと無事では済まされなかった。
もしかすると、みそら先生にも発見されないまま、その存在にも気づかずに“無の壁”に触れてしまって……。
そんな恐ろしい想像がよぎったとき、不意にあかりが声をあげる。
それは俺の予想外の内容だった。
『いや、俺は残るよ』
「は……? な、なんで?」
俺の真正面に立ち、今の俺より少しだけ高い目線から真っ直ぐに見つめてくる。
そこに、みそら先生が来たばかりのときのような怯えはない。
『俺はあきらを手伝う。やれることやってから戻る。そうじゃないと、やだ』
「や、やだって……」
あかりは誰よりも“裏側”にいて、ずっと元の世界に戻るのを望んでいたはず。
しかも俺とはいがみ合うことも多くて、みそら先生やゆたかのような感情もないはずなのに、どうして俺のために残ろうとしてくれるのか。
意に反していたのはゆうなも同じ。
そんなことを言い始めたあかりに戸惑い、あかりの肩に手を置いて顔を覗き込む。
「ちょっとあかり、どうしたの? 戻りたいはずでしょ? さっきのを見て、もうここが危ない場所だってわかったでしょ?」
『うん、それはわかった。だからこそ、なんだよ』
あかりはゆうなを見上げ、視線を返す。
俺に向けられていた言葉は、いつの間にかゆうなに向けられている。
『俺さ、ずっとここにいて、ずっと考えてたんだよ。たくさん、ゆうなのことを』
それは強く、優しい視線。
『俺はレズになりたくなかった。そう思って逃げてた罰だって思った』
「ど、どういうこと……?」
何を言い出すのかと、俺を含めてゆうなも首を傾げる。
あかりは自嘲的に小さく笑い、目を閉じる。
『今はもう“裏側”だって言われて、そう納得するしかないんだけどさ、俺はここを俺の頭の中の精神世界だって思ってたから、どうして出られないのか、なんであきらっていう二重人格が出てきてしまったのか、ずっと考えてたんだ』
薄く目を開け、遠くを見つめる様子のあかり。
『俺って二重人格を作っちゃうくらい弱ってたのかなって考えて、思い当たったのがゆうなとの付き合い方だった。いや、誤解のないように言うけど、ゆうなのことは好きなんだよ。恋愛感情として好きなのはわかってる。けど、周りからレズだって、レズビアンだって見られるのはどうしても嫌で……』
それは俺に対しても言っていたこと。
あかりが男装しようとしていたことと、髪を切ろうとしていたことの理由。
『それで、そうやって逃げ回ろうとしていたことの罰なのかなって。ゆうなは俺のことを愛してくれるのに、俺はレズビアンって見られるのが嫌で、逃げるばっかりで何も返せてなかった。そんな自分を嫌がって、俺はあきらなんていう男の人格を生み出しちゃったのかなって』
「そんなこと……」
『うん、結局は俺の妄想だったんだけど、当時は、って話だから』
否定しようとするゆうなに、あかりは首を横に振る。
薄い唇は、小さく震えているようにも見える。
『俺が言いたかったのは、そのときにすごく反省したってこと。ゆうなから愛されて、守られて、それでも逃げるだけだった俺のことを、俺がすごく嫌になったんだよ。あきらから聞いたんだけど、ゆうなもいっぱい悩みがあったんだよな。なのに、俺は俺だけって顔をしてて……。そんなことを考えて、すっごく反省したんだ』
あかりが顔を伏せ、長い黒髪が垂れる。
『俺は、そんな卑怯なやつから卒業したい。悩むならゆうなと一緒に悩める、強い女になりたい。体が小さくて気が弱くて、いつも守られてる女のままじゃダメなんだ。変わらなきゃ、ゆうなと一緒にいるのが申し訳なくなる』
小さな拳を握るのが見えて、あかりは顔を上げる。
ドキリとしたのは、真摯にゆうなと向き合う真剣な表情と、その目に滲む涙があったから。
『メチャクチャな理屈かもしれないけどさ、やるなら、今なんじゃないかって思うんだ。どんなコンプレックスもイメージだけでどうにかできるこの環境なら、いやこの環境でさえ勇気を出せないなら、俺はいつだって頑張れない気がする。頑張るなら、今しかない気がしてる』
「あかり……」
そのゆうなの声には、どこか悲しげ。
相反するようにあかりはニカッと大袈裟に笑って見せて、その時に初めてあかりに八重歯があるのを知った。
『たぶん俺が一番役に立てるんじゃないかな。俺が一番長く“裏側”にいて、イメージだってずっと遊んできた。先生みたいにちゃんとわかって使ってたわけじゃないけど、感覚は俺が一番掴んでると思う。だからさ、俺は残ろう――って、わっ?』
ゆうながあかりを抱きしめた。
それは突然で、あかりは慌てふためく。
両腕ごとゆうなに抱き寄せられ、前腕だけがパタパタと動き焦っている。
そんなあかりのことを意に介さず、ゆうなは一層強く抱きしめた。
「ありがとう、あかり。そんなことないのに、そんな風に私のことを思っててくれて……。いろいろ、言わなくちゃいけないことがあるはずなんだけど……ううん、今はありがとう。嬉しい」
『ちょ、ちょっとゆうな、苦しいって……』
「嫌よ、離したくない。こんなに愛おしいんだもの。やっぱり別れなくて本当に良かった……」
『え、な、なに、別れるって? そんな話あったっけ?』
噛みしめるゆうなと、戸惑うあかり。
くくく、と笑いを噛み殺して見ているみそら先生と、見ないように目をそらし始めたゆたか。
ああ、ゆうなに抱きしめられてるときの俺はあんな感じだったんだなぁと、不思議と冷静な俺がいて、それから少しだけ悶着はあったのだけれど、その間はあの“無の壁”の恐怖を忘れられるような心地良さがあった。
そして少しの間が空いて。
結論を言うと、ゆうなもあかりに付き添って残ってくれることになった。
「私だけ先に戻っても仕方ないからね。あかりが頑張るって言うなら、応援しなくちゃ彼女じゃないでしょ?」
いつだか俺に言ってくれたようなことを言うゆうな。
残ってくれたことの嬉しさもさることながら、やっぱりこの世界のゆうなはそういう子なんだなと思う感情が胸を温かくしてくれる。
「ありがとう、ゆうな。もちろん、あかりも」
『ついでみたいに言うなよ』
そんなつもりなかったのだが、やっぱり絡んでくるあかりにらしさも感じる。
不意に思い出すのは、今日の昼の出来事。
大学に向かうまでの、俺が自嘲的に思っていたこと。
その逆のことで悩み、反省して頑張ろうとするあかりを見て、何か眩しいものを見たような気持ちになる。
それは棘のあるものではなくて、胸の内にすっと入り込み、溶けるもの。
じんわりと体の中に広がるような感覚に、俺は勇気づけてもらったような気がして、また一段と嬉しくなった。
「ありがとう、みんな。本当にありがとう。でも、危なくなったらすぐに先に帰ってくれよ」
それは俺の心からの思い。
同音異句にみんなが頷いてくれたのを見て、俺は覚悟を決める。
これまでも真面目にやっていたつもりだけど、これまで以上に俺は頑張らないといけない。
俺が頑張って、みそら先生の言うイメージというやつを習得して、みんなで帰ろう。
そう思ってぐっと握りしめた小さな手は、今日一日の中で一番力が込められたように感じた。