鉛のように重い足枷
「なるほど。この“裏側”を閉じる、いや、開ける存在か」
ゆたかの発言を受け、みそら先生が考え込む。
時間制限。
それは俺があかりの体になっているとき、菊地原先生から聞き、ずっと気にしていたこと。
短ければ一日で消えてしまう可能性のあるミステリースポットを探し、こうして辿り着いたのに、それが迫ろうとしている……?
「え、だって、ここって時間の流れが違うはずじゃ……」
「そうだね。私も同じ認識だよ。でも、速度は違っても確実に流れ、過ぎ去っている。オーバーはしていないけど、“裏側”の崩壊が徐々に始まったと考えておいた方が無難じゃないかな」
そんな……と出かけた言葉は喉で詰まる。
俺がここに来てから時間がどれほど経ったのだろう。“裏側”とそうでない世界の時間の流れる差はどのくらいあったのだろう。俺は何も理解していない。
「もし“無の壁”がゆたか君の言う存在であるとして、“裏側”を崩壊させようとしているならば、先ほどの想定は上書きしておこうか。私たちが知覚した以外の方角にも出現していて、全方位から迫ってきているものとした方が良いね」
『ぜ、全方位って……! あんなのが……』
声をあげるあかりは怯える表情を浮かべている。
たぶん俺と近い感情を抱いている。
急に地面に穴が空いたような、落ちてしまう恐怖に晒される感情。
と、あかりが閃いた様子。
『あ、空! 空はどうですか!』
あかりは真上を指す。
『俺、イメージすれば空を飛べるんです。頑張ればみんなと一緒に飛べると思います。空なら大丈夫ですよね?』
「さあ、どうだろうね」
まくし立てるようにしゃべるあかりとは対象的に、みそら先生の返答は淡白なもの。
肩をすくめ、首を横に振る。
「正直なところ、現時点では不明だよ。調査をして、上なら“無の壁”に触れずに済むという確証を得たいところだ」
『わ、わかりました。じゃあ、俺が空を飛んで確認して――』
「ダメっ!」
声を張り上げたのはゆうなだった。
急な大声にみんな驚いていたが、誰よりも止められたあかりが一番ビクリと反応していた。
「あかり、ダメ。行っちゃダメよ。もし触ってしまったら、あかりが消えちゃう!」
『あ……』
あかりは空を飛ぶことができる。
俺の目の前で飛んだのを見ていたし、あかりの話では相当な上空まで飛ぶこともできるらしい。
それができるあかりは選択肢として思い当たり提案したのだろうが、ゆうなが止める理由も納得できた。
分裂した方とは言え、俺たちの目前でみそら先生が消えるのを見ているのだ。
もし、あかりが同じ目に遭ってしまうと考えたら……。
ゆうなと同じように、ゆたかも同じ思いを抱いたらしい。
ゆたかが一歩進み出てあかりの正面に、止めるように両肩に手を置く。
「私も、あかりにそんな危険な真似はしてほしくないな。友人からのお願いだよ」
『う、うん。わかったよ……』
渋々といった様子ではあるが、二人の制止が効いたらしい。
あかりは上げかけていた腰を下げ、また小さく座り込む。
「ちなみに、みそらさんの分裂ってリスクがあるんですか? さっき、私たちがやろうとするのを止めてましたけど、手分けして何かをするなら、みんなで使えた方が効率的じゃないですか?」
「そうだね。ゆうな君の言う通りだが、私はその提案は受け入れられない。端的に言うが、分裂はたまたま私の性格と相性が良いだけで、合わなければ大変なことになるであろうことは想像に難くない。前にゆうな君自身が言っていた、二重人格の恐怖の話と近いものだと考えてくれ」
「あ、なるほど……」
ゆうなはそれで納得したようだった。
俺にはよくわからなかったが、とにかく俺たちが分裂を使うのは良くないことらしいということは理解した。
「調査は私が分裂をしてやるつもりだよ。先ほどあかり君が提案してくれた上方向への調査もしておこう。その結果によっては、君たちに移動をお願いすることになるかもしれない。そうなったら協力をお願いするよ」
もちろん、と言って承諾するのはゆたか。
その言葉は続き、
「みそら先生に頼りっぱなしで、大丈夫ですか? 何か調査で手伝えることがあれば」
「ありがとう、ゆたか君。君の類稀な体躯を活かす安全な機会があれば頼るが、調査に関しては危険が及ぶ可能性が高い。君たちはもう成人しているだろうが、世界が異なろうが、私の生徒たちであり、未来ある若者たちだ。老骨として、君たちを生かすために全力を尽くすから、君たちは安全な範囲でできることに集中してほしい」
できること、と言うのは、
「あきら君のイメージの訓練だ」
「俺、ですか」
驚くも、言われてみれば心当たりがある。
俺がそれについて言葉を発する前に、みそら先生からの制止が入った。
「詳しい説明は、私の分裂を待ってほしい。分裂して生まれた彼女たちに話をして、調査に出かけてもらってから続けよう。――さあ、始めるよ」
言って、みそら先生は大きく両腕を横に広げる。
振り払うように大仰な動きで広げた両手の先に、腕を広げた時に生じた僅かな風圧から生まれたかのように一人ずつみそら先生が現れる。
現れたみそら先生たちが結わえている髪を揺らすと、後ろからさらに一人ずつのみそら先生が。
新しく現れたみそら先生が次のみそら先生を生む連鎖が続き、何人ものみそら先生たちが俺たちの前にいる状況に。
頭がくらくらしそうな光景。
俺たちの前にいた最初のみそら先生が、以降にみそら先生たちに声をかけ、統率を取る。
「君たちは先ほどまでの私の記憶を有しているはずだから、よく認識しているだろう。私が説明する役割としてここに残ろうと思うが、問題ないかな?」
「ああ、もちろん。未知に溶ける権利を得られるのは僥倖だよ」
同音異句にたくさんのみそら先生たちが頷き、全員の合意は間もなく得られる。すぐに散らばって全方向に走り出し、少し距離を離れた後、各々のタイミングで消えていく。
消え方もあるが、何より直感的に先ほど見た“無の壁”と接触したことによる消え方ではないことがわかった。
たくさんのみそら先生が現れ、散り散りに消えた。
俺たちの前に残ったみそら先生いわく、彼女たちは“無の壁”の調査に出かけたらしい。
俺たちに迫る“無の壁”がどのくらいの距離にあるのか、俺たちが逃げられないような全方位に至っているのか、あかりの言っていた空には逃げ場があるのか、など。
「さて、私の意図を説明しておこうか。私が調査をして“無の壁”の驚異から遠ざかろうとする行いは、これがゆたか君の言う時間制限による事象なのだとすれば、有限の時間を少しでも引き延ばそうとする悪あがきに過ぎないだろう。しかし、それで良い。私が得たいのは、少しでも長く安全な状況を作ることだ」
みそら先生は続ける。
「私たちには逃げ切る方法がある。それは自分の世界に戻ることだ。この“裏側”から離れ、自分の世界に、自分の肉体に戻れば、迫る“無の壁”から逃れることは容易いだろう。観測されない世界の事象は、観測しなければ可能性のままだからね」
自分の肉体に戻ること。
それはこの“裏側”からの脱出と同義であり、俺の心当たりでもあること。
みそら先生はあかりを見る。
俺から見て、優しげな視線。
「あかり君は誰よりもイメージをするのが上手いから、きっと容易く自分の肉体に戻ることができるだろう。あかり君の肉体に収まっていたあきら君はここにいるから、あかり君が自分の肉体に戻るための条件を満たしているしね」
次に俺を見る。
それは、少し厳しい視線。
「対して、あきら君はまだイメージを習得しきれていない。正しく自分の肉体に戻ることは、まだ難しいだろう。もし誤ってあかり君の肉体に精神を戻してしまったら、あかり君がまた“裏側”に取り残され、誰よりも危険に晒されてしまう。時間の流れの差を考えると、その失敗は本当に命取りだ」
俺は自分の体とあかりの体の両方を知っているが、あかりはあかりの体しか知らない。
うまくいって俺が自分の体に戻れればあかりに戻る先の体はあるが、俺があかりの体に戻ってしまったらあかりは戻れなくなってしまう。
そんな事態は避けなければならないと、みそら先生は言う。
「今のあきら君は、そのままにしておけない状況だ。あきら君が“裏側”に取り残されてしまう可能性が高い。イメージを習得できていない以上、意識的に本来の自分の肉体に戻るのも厳しいはずだから、それも危惧すべき状況だよ」
みそら先生が先ほど言っていた“n-1の俺”の話。
“n-1の俺”が元の世界の体に戻れたのは、みそら先生に教わり、“裏側”でのイメージができるようになってからだと言っていた。
つまり、イメージができるようにならなければ、俺は自分の体に戻ることができないということ。
「だから、順序が大切だ。まずはあかり君から自分の肉体に戻り、その後からあきら君が自分の肉体に戻ること。この順序は崩してはいけないよ。そして、その前にあきら君がイメージを習得して、あきら君の肉体に戻る準備を整える必要もある」
その上で、みそら先生はゆうなとゆたかの二人を見る。
二人は神妙な表情で、みそら先生の話を受ける。
「ゆうな君とゆたか君は、選択をしてほしい。先に戻るか、あきら君を手伝うか。君たちもあかり君と同様に体を変化させるイメージに成功しているから、あきら君の練習を手伝ってあげることが可能だろう。しかし、無理強いはしない。君たちは自分の意志を尊重して先に戻ることを選択するなら、そうしてほしいとも思う。あきら君の面倒は私が見るから、その点では安心してほしい。世界という括りで同郷の人間として、私は彼に愛着を持っているからね」
みそら先生の話を聞いて、俺は気づく。
ゆうなとゆたかは、元の世界に戻れるのだ。
俺と違って二人は別の世界を跨いでなどいないから、戻る体は一つしかないし、それを拒む存在もない。
たぶんみそら先生の言うとおりに戻る手順を踏めば、すでに戻ることができる状態なのだろう。
そして、あかりも自分の体に戻れる状態にある。
誰よりも“裏側”に長く滞在し、身につけたイメージを使う力は間違いないものだと思う。
みそら先生のお墨付きだから、きっとあかりももう戻ることができるはず。
だから、それができないのは俺だけ。
唯一、俺だけが取り残されてしまう可能性が高く、しかも俺が誤ってあかりの体に戻ってしまったら、戻れる可能性のあったあかりを巻き込んでしまうとも言われた。
考えてみて、たしかにその通りなのだと思う。
あかりがこれまで自分の体に戻れなかったのは、その体に俺がいて占有していたから。
その阻害要因が取り除かれているのだから今はできるはずで、もしまた俺によって阻害されてしまうのなら、できなくなってしまう。
俺だけが腫れ物。
そういう事態に陥っていることが、混乱する頭でも理解できた。