戻る方法と戻れなかった理由
「ほ、本当ですか……!?」
俺はみそら先生に歩み寄り、そのスーツの前を掴む。
見上げる首は痛くなるが、構っていられない。
「知ってるんですよね! 俺が、元の世界に戻る方法を!」
「まあまあ、落ち着きたまえよ、あきら君。そう慌てては、戻る世界に戻れなくなってしまうよ」
肩に手を置かれ、子供に対するような優しい言い方でたしなめられる。
わかるけど……という言葉を噛み締めるも、やっぱり気持ちは急いてしまう。
行き場のなくなった両手は体の横に、うう、と言葉にならない唸りが漏れたのは、俺の意図しないものだった。
そんな俺の頭の上に、ポンと手が乗せられる。
見上げると、大きく骨ばった印象になったゆうなの手だった。
みそら先生と同じく、なだめるように撫でられる。
「あきら、大丈夫。もう少しだから」
言い聞かせるような言い方に、俺は小さく頷く。
みそら先生を見上げるよりも首が痛く、長くて重い髪の毛が後ろに引っ張られるので、見上げるのをやめる。
目の前に見えたのは、みそら先生の大きく盛り上がった胸だったので、慌てて一歩引いた。
そんな俺の様子を見てか、みそら先生は小さく笑う。
「ふふ、やはり君は、私が見送ったあきら君とは別人のようだね。同じ性別のあきら君でも振る舞いが異なるよ。もしくは、あかり君の体になっていることも関係しているのかな? 精神と肉体は密接な関係にあるからね」
俺の失態を笑われているような、なんだか急に恥ずかしい気持ちになり、耳が熱くなるのがわかる。
いや、だって、仕方ないじゃないか。
これまで望んでもヒントのかけらも見えてこなかった元の世界に帰る方法がきっと目の前にあって、そしたらスーツをパンパンに膨らませた胸があって、そりゃあ慌ててしまう。
「さあ、そんな慌てん坊に怒られる前に、最後の種明かしをしてしまおうか」
みそら先生は胸の前で両手を叩き、また自慢げに笑う。
「私は、あきら君を元の世界に戻す手法を知っているよ。それは私が立てた仮説のもと、一例ではあるが成功もしている方法だ。安心してほしい」
聞きたかったそれに、俺の気持ちは前のめりに。
俺の頭を撫でていたゆうなの手は肩に移り、そんな俺を軽く止めるよう。
そして、さらにフォローしてくれるように少年姿のゆたかも俺の横に出てきた。
「みそら先生、その方法とは?」
「うん、良い子の君たちには丁寧に教えてあげよう。しっかりと練習も付き合うと約束するよ」
練習、という言葉に首を傾げる。
みそら先生の言う方法とは、練習が必要なものなのだろうか。
その疑問は、みそら先生が続ける言葉によって解消する。
「――イメージする力だ。ここは“裏側”だと言っただろう? 私たちがいるこの“裏側”において、何においても最高の手段がイメージだ。重なり合った可能性の中から、自分が望む結果を観測してみせること。それがあきら君が元の世界に戻る方法だよ」
――イメージ。
それは、先ほどまでみそら先生が言っていた、この場所における特性の話。
不自然なまでの黒に覆われていた世界を白一色に変貌させたり、俺たちを一瞬にして性転換させた方法のこと。
俺たちがイメージして、みそら先生が指を鳴らせば起きること。
「そ、それだけで戻れるんですか?」
俺の小さな胸の内に強い希望を抱くと同時、少し疑わしく思えてしまう気持ちもある。
近い感情としては、拍子抜けだろうか。
必死になって探し求めたそれが、頭で考えるだけで成し遂げられる、なんて労力に見合わない対価に感じられ、本当にそんなことでできるのかという気持ちが湧く。
俺の質問に対して、みそら先生の回答は首肯。
「ああ、そうだよ。あきら君は“玉突き事故”に遭い、自分の体から離れてしまった。それを引き起こしたきっかけはわからないにせよ、何かしらの因果関係として“裏側”に繋がることができた、もしくは、“玉突き事故”は“裏側”を経由して発生していたのかもしれない。つまり、あきら君はこの“裏側”の特性を活かして“玉突き事故”の順序を遡ることが、解決するための手段なんだよ」
「そっか……そう、だったのか……」
――突然、体から力が抜けるような感覚。
自分の意志とは関係なく、急に視線が下がり、少し遅れて腰が抜けて尻餅をついたことを認識する。
俺の隣にいたゆうなとゆたかが慌て、心配そうに俺の顔を覗き込んでくるが、俺はそれをぼんやりと眺めるだけ。
今の俺の頭を占めるのは、良かった、という安堵の気持ちだった。
それは、戻れる方法を知れたという気持ち。
そして、誰かが悪かったわけではなかったという気持ちの両面からのものだった。
俺はあかりの体と入れ替わり、おかしな状況に振り回され続けてきた。
ゆうなだけが俺の知るのと同じ性別だったことから、ゆうなが原因ではないかと考えたときがあった。
俺を誘導するような意思があるとゆうなに告げられ、ゆたかを疑ったこともあった。
でも、みそら先生が言う答えは、そのどれでもない。
俺は、どこか遠い別の世界にいる俺の入れ替わりに巻き込まれただけで、俺の恋人や友人が悪意をもってやったことではなかったのだ。
今まで疑い続けていたわけではないが、それでも一度はその可能性を考えた俺の脳裏にはこべりついていたようで、それが晴れて力が抜けてしまったのだと思う。
正座を崩したような女の子座りになっていたのは、あかりの体だからだろう。
心底心配する様子のゆうなに肩を借りて立ち上がろうとするが、まだちょっと無理そうだった。
ぺたんと座り込み、真っ白で素材のわからない地面が俺の尻を冷たくする。
不意に視界が歪んだのは、涙が滲んできたせいか。
「だ、大丈夫? 具合悪くなったの?」
「いや……良かったなって思ってさ。ゆうなやゆたかのせいじゃなくて、ただの事故で、本当に良かったなって思ったら、力が抜けちゃって」
「あきら……」
滲んだ涙を手の甲で拭う。
恥ずかしい姿を見せたような気になり、今度は顔にも熱がのぼってくる気がした。
両方の小さな手で顔を扇ぐも、長い髪の毛が邪魔に揺れるだけで、ちっとも熱が冷める気がしない。
『あの……』
そんなとき、話しかけてきたのは、俺の姿をしたあかりだった。
意を決したように唇を固く結んでいる表情は、あまり俺自身がした覚えのないもの。
『俺も、元の世界に戻れますか……?』
言われ、ハッとする。
俺が元の世界に戻りたいというのは、あかりからしても同じことだった。
そして、あかりはこれまで誰とも会うことなく、この何もない空間に置き去りにされていた――
「ああ、もちろんだよ。順序としては、あかり君から先に戻ったほうが良いだろうと思っている」
『お、俺のほうが先に、ですか……?』
その理由は、とみそら先生が語る。
「まずあかり君に自分の体に戻ってもらい、あきら君の戻れる体の選択肢を減らしたほうが確率が高くなるはずだ。というのも、これまであきら君は、どうしてあかり君の体に戻っていたと思う?」
それは俺に対して問われた質問だったので、みそら先生を見上げる。
が、タイトスカートを下から見上げると良くない視界になりそうだったので、慌てて視線をそらし、斜め上のどこでもない空間を見ることにした。
「どうしてって、さっきみそら先生が言ってたじゃないですか。俺があかりの体に入ったのは“玉突き事故”だったって」
「いいや、私の質問は違うよ。どうしてあかりくんの体に“戻った”のかだ」
「戻った、ですか?」
ああ、と俺の視界の端でみそら先生の頷く様子を見る。
「先ほどのゆうな君の話を聞いていた限り、あきら君がこの“裏側”に来るのは初めてではないのだろう? なら、この“裏側”から目覚め、あかりくんの体に戻った経験があるはずだ。そこを深堀りして考えてみてほしい。どうしてこの“裏側”にいたにも関わらず、あきら君は自分の体ではなくあかり君の体に戻ってしまったのだろう?」
「それは……」
顎に手を当てて考え始めるも、そんなことを考えたことはなく、すぐに行き詰まる。
悩んだ末に、今思いついたことをみそら先生に話してみる。
「考えたことなかったですけど……たぶん、俺の体に戻るための条件を満たしてなかったからだと思います。まだ世界膜を通って、俺のいた世界の方に行けていないから、とか」
「世界膜というのは、男性の私が仮定していたパラレルワールドの構造のことだね。前者だけを捉えるなら正解だが、幸いなことに後者は不要だったよ。これは私の経験則であり、君たちに探索不要であると言った根拠でもあるね」
別の世界の俺、みそら先生にならった言い方をするなら“n-1のあきら”を元の世界に戻したとき、みそら先生たちは世界膜を越えていなかったと言う。
「では、あきら君たちが自分の体に戻るための条件について考えようか。ここで問答を繰り広げても良いのだが、今の私はしゃべり述べ語ることに楽しみを見出しているからね、意地悪はせずに話を続けよう。この“裏側”ではいくら喉を酷使しても渇きすら感じないのは素晴らしいよ」
みそら先生に言われてみて、自分の喉に手を当てる。
喉仏がなくなって柔らかさのみになった喉に触ったところで何かわかるわけでもないのだが、たしかにこれだけたくさん話しているのに、喉が渇いていない。
見ると、俺の姿をしたあかりも同じ動きをしているのに気がついたので、慌てて手を引っ込めた。
「ふふ、それじゃあ、あきら君たちが元の体に戻るための条件だが、私は二つあると考えている」
みそら先生は手や指を使ったボディーランゲージを好むらしい。
今度も、右手の人差し指を立て、俺たちに見せてくる。
「一つ目は、戻るべき肉体をイメージして、戻ろうとイメージをすること。対象と行動のイメージだ。対象を決めなければ精神の行き先が確定せず、無意識下で精神が認識している“自分の肉体”に戻るのだろうと私は推測しているよ。あきら君が何度かこの“裏側”に来て、それでもあかり君の肉体に戻ったのは、そういう法則があるのだろうと考えられる」
「無意識下で……?」
「そう、顕在意識ではなく潜在意識を指しての無意識だよ。ざっくりとした表現をするなら、今のあきら君にとって自分の肉体はどれなのか、という選択を意識せずにやっていたはずだ」
意識していないのなら、俺のその記憶があるわけもない。
しかし、気になることはある。
「俺が自分の肉体って無意識に思うなら、それこそ男の体の方になるんじゃないんですか?」
俺は生まれてからずっと、元いた世界の男の体で生きてきた。
別の体、しかも似ても似つかないあかりという女の体になるなんて、今回起きたこの出来事以外に遭ったことはなく、あかりの体にいた時間だって今日しかない。
それなのに、俺の無意識が自分の体をあかりの体と認識するなんてこと、ありえるのだろうか。
俺の質問に、みそら先生は小さく首を傾げる。
「たしかにその通りだね。私もそう思っていたのだが、事実としてあきら君はあかり君の体に戻っていたのだろう? 私と共に行動していた別の世界のあきら君の例を踏まえるなら、何かあったはずだ。あきら君があかり君に肉体に入り込んでから、その肉体でしか得られない強い体験や刺激などが」
強い体験や刺激。
そう聞いて思い出すのは――
「もしそうしたことがあったのなら、無意識が上書きされた可能性が高い。人間は順応性の高い生き物だからね。超常的なことであっても、そうした強い体験や刺激によって、今の自分の肉体の認識が変わってしまうこともあるだろう」
脳裏に焼き付いたピンク色の光景を振り払い、俺はゆうなを見上げる。
さっきまで心配そうに俺を見ていたはずなのに、どうやらゆうなも話を聞いて気づいたらしい。
わざとらしく俺から視線をそらして、白々しくみそら先生の話を聞くのに集中しているかのような顔をしている。
俺があかりの体と入れ替わって以降、最初に意識を失ったのは日付が変わってから少ししてのこと。
ゆうなの後に俺が風呂に入ろうとしていたところを、ゆうなに強引に襲われて――
あ、あれさえなければ……!
あれさえなかったら、自分の体に戻れたかもしれないのか……っ!