010 最初の一杯(泰然視点)
薬を薬箱に片付けていると、雪蘭が女性物の服を抱えて部屋を訪ねてきた。翡雲が用意したらしい。使ってもらっていた部屋は翡雲の部屋になってしまったので、着替えるためにここへ来たようだ。
まだ片付け途中だったので、部屋を出て待っていると食堂からいい香りがしてきた。
翡雲は料理が得意なのだ。ここに籠もる俺に美味しいものを食べさせたいといって料理を覚えてくれたという。
食堂にて、いつもより張り切った様子で鍋を振るう翡雲に声をかけた。
「翡雲……なんだ、酒のつまみばかりだな」
「今夜は寝かさないぜ、泰然」
「そう言って、いつも先に寝るくせに」
「ああ、おそらく今日もそうなるだろう」
そう言って笑い合うといつもの翡雲に見えるが、やはり元気がない。雪燕のことが相当辛かったのだろう。
「雪蘭、お前とお似合いだな。雷殿には黙っておいてやる」
「ん?」
「内緒でここにいるのだろう?」
「ああ、そういうことか。そうだ、内密にしてくれ」
勘違いしておいてくれた方がいいだろう。説明が省けて助かる。
「雷殿を説得したいのなら協力するぞ。いや、その前に泰然の父の方が厄介か?」
「俺のことはいいから、自分のことを考えろ」
「……よし、今夜は呑むぞ。そして雪蘭との馴れ初めを聞き出してやる」
「好きにしろ」
「ああ……」
頷き、顔をあげると翡雲は食堂の入り口を見て固まってしまった。
振り返ると、薄紫の衣を着た雪蘭が立っていた。上衣は大きな花模様、薄紫の薄手の裙子は軽やかに動きやすそうである。
「雪燕」
翡雲が小さく彼女の本当の名を呼んだ。しかし翡雲は俯き首を横に振ると、笑顔を作り顔を上げた。
「似合っているな。さすが私が選んだ服だ」
「ありがとうございます。こちらの方が動きやすいです」
雪蘭の言葉に、翡雲は寂しげな笑顔を向けた。
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夕食の時、明日から谷の探索をする話をした。
探索は俺と雪蘭の二人で行い、翡雲は朝早くに都に帰ると言った。
しばらく帰らなそうな雰囲気であったが、そう言ってくれて正直ホッとした。
夕食を終えると、雪蘭は部屋へ下がり、それを見て翡雲は酒を準備し始めた。
杯を机に置き酒を注ぐと、翡雲は杯をゆっくりと手に取った。
「最初の一杯は、雪燕に捧げる」
床に酒を撒き、翡雲は瞳を瞑り彼女に祈りを捧げた。
俺は、最後までそれを見届けた後、手元の杯の酒を一気に飲み干した。
「なんだ、泰然。雪燕に酒はやれないのか?」
「見ず知らずの男からの酒など、高貴な姫には不要だろう。翡雲の酒で、喜んでいるはずだ」
「……そうだろうか」
「ああ」
「さっき、雪蘭が食堂に来た時、雪燕かと思った」
俺は驚いて、注いでいた酒を溢しかけた。
「大丈夫か? 心配するな、泰然の女に手を出すものか。ただ、彼女がもし生きていたら、雪蘭のように成長したのではないかと勝手に妄想してしまったのだ。名前も声も、瞳の色も似ているのだ」
やはり、彼女が雪燕だと、話した方が良いのではないだろうか。翡雲なら、いずれ、彼女が雪燕だと確信してしまう日が来るような気がする。
「もし、許嫁の彼女が生きていて、目の前に現れたらどうするのだ?」
「馬鹿をいうな。そんなことはあり得ない。それに……私はもう彼女の許嫁でいる資格はないのだ。私はきっと、彼女に恨まれている」
机に伏せ、翡雲は泣きそうな声で言った。
「なぜだ?」
「先月、満月の日に彼女の舞を見に行った時、赤くただれた肌の彼女を見て、私は……彼女を拒絶してしまったのだ」
深いため息を吐き、翡雲は言葉を続けた。
「酷い言葉を言った。彼女が、病床で死を待つ母の姿と重なって見えた。私はそれを受け入れたくなかったのだ。情けない男だ。本当に……」
「でも、諦めずに、陛下にも頼んだのだろう? 秘薬の完成を急ぐようにと」
「何もできなかったけどな。今、私にできることは、彼女を救えたかもしれない秘薬を完成させることだけだ。それしか思い付かない。彼女を奪った疫病を、この世から消し去りたい。泰然と……同じだな」
「そうかもな」
「ずっと、秘薬作りを任せきりにして、すまなかった。これからはもっと協力させてくれ」
「ああ、頼りにしているぞ、翡雲」
胸にため込んでいた事は、ちゃんと言えただろうか。
翡雲は酒に弱い。たった二杯飲んだだけで、机に突っ伏して寝てしまった。
部屋に運び寝台に寝かせた。明日起きた時のために、食堂で二日酔いに効く薬膳湯を作り置き、一人でまた酒を飲んだ。
雪燕が翡雲を恨んでいるようには見えなかった。
しかし、彼女は雪燕に戻りたくないと言っていた。翡雲の言葉に傷ついていたからだったのだろうか。
「わからん……」
雪燕にも、翡雲にも、どちらも笑顔でいて欲しい。
しかし、雪燕がもし生きていると分かれば碧砂国はどう動くだろうか。
今は静観しよう。秘薬の完成が、俺にとってなにより優先すべきことではないか。どうしてか、雪燕のことばかり考えてしまう。
今まで気づかなかったことを、雪燕が提案してくれたからだろうか。彼女と一緒なら、秘薬の完成が近いかもしれない。
杯に酒を注ぐと、酒壺の中が空になった。
「もうないのか……」
ほとんど一人で飲みきってしまった。喉を焼くような濃い酒を一気に飲み干すと、急に眠気がやってきた……。
「……寒っ」
机に突っ伏したまま食堂で寝てしまっていた。
夜間は冷える。食堂の灯り消すと、月明かりのない夜は暗く、俺は宮燈を手に、そそくさと自室に戻り寝台に横になった。
温かい。そうだ、今日は翡雲が来ているのだ。
掛け布は二枚用意していたはずなのに、枕元に置いておいたはずの俺の分が見つからない。手探りで探すが眠気に負けて諦めた。
「翡雲……」
掛け布を分けてもらおうと言いかけて、俺はそのまま眠ってしまった。




