008 雪蘭として
翡雲様は、許嫁だった私のことと、ここへ来るまでの碧砂国での出来事を話すと、持っていた水筒の水を一気に飲み干した。
話の途中、何度か泰然様と目が合った。
多分、本当に翡雲様に雪燕だということを黙っていていいのか、そう聞きたかったのだと思う。
「それで、こんな朝早くにここへ来たのだな」
泰然様が尋ねると、翡雲様は暗い顔で頷き口を開いた。
「ああ、谷の手前で毒が薄まるのを待ってここまで来た。先月、泰然に言えなかったことがあるのだ」
「なんだ?」
「実は、あの時、雪燕は……疫病にかかっていたんだ。母と同じ、死の病に」
「お母様と同じ?」
驚いてつい口を挟んでしまい、翡雲様は不思議そうに首を傾げて私を見た。
失言だった。私は泰然様の親戚なのだから、雲龍国の人間。皇后の死の理由を知らないはずがないのに。
「ん? ああ、自己紹介をしていなかったな。私は前皇后の息子雲龍国第二皇子の翡雲だ。母は泰然の祖父が死の間際に完成させた秘薬で命を救われた。そのお陰で、弟を身籠っていた母は出産まで生き永らえることができた。残念な事に、弟を出産後、体力が持たずに亡くなってしまったが……」
翡雲様のお母様が亡くなったことは知っていた。しかし、疫病にかかり、泰然様のお祖父様の秘薬で助かっただなんて。だから翡雲様は泰然様に協力しているのだ。
泰然様は、どこか納得いかない様子で口を開いた。
「しかし、翡雲の許嫁は、事故で亡くなったのではなかったのか?」
「ああ、だが、疫病にかからなければ、宮殿を出ることなどなく、事故に遭うこともなかったはずだ。疫病さえ治せれば……。先月ここに来た後、泰然の秘薬作りが少しでも進むように、私は父に援助を頼んだのだ。しかしその頃、碧砂国から、雪燕の不調を理由に、婚儀の相手を春燕にとの文が届き、父は雪燕が疫病にかかったのだと気付いてしまい、私に禁足を言い渡した」
「翡雲を守ろうとしたのだな」
翡雲様は、私を助けようと父親に掛け合ってくれていたんだ。胸の奥が熱くなるのを感じた。
「ああ、雪燕に会いに行けないように、疫病が移らないようにと……。そして、雪燕の死を聞き、やっと外へ出る許可が出た」
翡雲様はボロボロの黒い布を懐から取り出した。黒い布に銀糸の刺繍、私の外套の切れ端だ。
「あの馬車を見つけたのか?」
「ああ、泰然も知っていたか……。私は雪燕の死が信じられなかった。それに気付いた父は、外へ出る条件として、碧砂国の皇帝への文を私に託した。私の婚約に関する内容だ」
「碧砂国をその目で見て許嫁の死を認め、婚約に関する文を渡すことで、その先の自分へ目を向けろ、ということか。──しかし、雪燕は本当に亡くなったのか?」
泰然様の言葉に、私も翡雲様も驚いて顔を上げた。しかし、翡雲様はすぐに視線を落とし、ため息交じりに首を横に振った。
「ああ、あの谷へ落ちた者が生き残れるはずがない。それに落ちずとも、疫病に勝てるものなどいない。だから──秘薬の完成を急ごう。これ以上大切な人を失いたくない。しばらく私もここで秘薬作りを手伝わせてくれ」
そう言って翡雲様は机に額がつくほど頭を下げて懇願した。一国の皇子が頭を下げるなんて。
泰然様は困った様子で私へ目を向けた。
するとその視線に気づいたのか、翡雲様は顔を起こすと私と泰然様を疑いの眼差しで交互に見た。
「……私は邪魔か?」
「は? だから、俺と彼女はそういう関係ではない。それから、ここに滞在したいのなら、陛下の許可を取ってくれ。それに、翡雲が頼んでいた処方薬も、都に持ち帰らねばならないだろ」
「そうだな。泰然の言う通りだ。──そうだ、急いでこちらへ向かったため、薬の材料を麓の町に置いてきてしまった。取りに行ってくる」
翡雲様は勢いよく立ち上がると、部屋を飛び出していった。
泰然様は私へ視線を向けると、口にするか迷ったのか、少し間を置いてから口を開いた。
「いいのか? 本当に雪蘭のままで。翡雲は昔から許嫁を大事に想っていたから」
私は大切にされていたと思う。
でも、私は公主には戻らない。
翡雲様とは、もう住む世界が違うのだ。
「翡雲様には新しい婚約のお話もあるようですし、私のことにも気づいていません。これで良いんです。このまま雪蘭でいさせてください」
「しかし……」
「あっ、泰然様に、ご迷惑をおかけしていますよね。ここに置かせていただくのは、彼が来るまでの約束でしたし。お金もいただきましたので、私は何処か別の町に──」
「それは駄目だ。まだ身体は本調子ではないはずだ。ここにいろ」
私の手を握りしめて、泰然様は焦った様子で力強くそう言った。そして驚いている私を見て、慌てて手を離すと、気まずそうに頬を赤くした。
「俺の方こそ、君に迷惑をかけた。翡雲に変な誤解をさせてすまない。その……翡雲は、急に君がいなくなったら、自分のせいかもと思って、色々詮索するかもしれない。叔父の家まで、君を探しに行く可能性もある」
「確かに、翡雲様って、行動力がありますよね」
「ああ、だから……ここにいてほしい」
真っ直ぐに私の瞳を見て、泰然様はそう言った。本来なら、私がお願いする立場なのに、なんでこんなことを言ってくれるのだろう。
恩を返したいのに、どんどん泰然様へ返したい恩が大きくなっていくばかりだ。
「……はい。ありがとうございます。あの、私も秘薬作りを手伝わせてくれませんか。雷雪蘭として、お手伝いさせてくれませんか?」
「分かった。では、俺の部屋に来てくれ」




