007 ただ優しいだけの兄(春燕視点)
危うく殺されるところだった。
翡雲様は勘違いをされている。
せっかく私が部屋を訪ねてあげたのに、翡雲様は私の眼前に剣を突き刺し、罵詈雑言を浴びせると、宮殿を出ていってしまった。
真夜中なのに大丈夫だろうか。
心配してあげる私って優しすぎるわ。
あれもこれも全部、雪燕のせい。
お父様は婚約のことを諦めているし、お母様は雪燕の死を知って落ち込んでいる。
私が舞姫になったのだから、雪燕のことなんて綺麗に忘れてしまえばいいのに。
みんな雪燕みたいな可哀想な子を、可哀想がってあげる自分に酔っているのかしら?
そうだ、明日から町に出かけよう。
民は私を必要としてくれている。
民心を得て、今何をすべきなのか、両親の目を覚まさせてやる。
そして翡雲様も……。
小さい頃からずっと、翡雲様に憧れていた。
私が舞姫だったら、彼の許嫁になれたのに。
そうだわ。私が今の舞姫だって翡雲様に伝えそびれてしまった。
舞姫だって知れば私と婚約してくれるに違いない。
私ったら、うっかりさんなんだから。
自室へ戻る途中、兄の仁峰と出会った。
神妙な面持ちでどうしたのかしら。
「翡雲様が帰られたと聞いた。何かあったのか?」
「さぁ、分かりません」
兄は雪燕と同じ側室の子であるけれど、他に皇子はおらず、皇太子である。
墨のように黒い髪と切れ長の黒い瞳は、私と同じで父親似だ。
「婚約の件は、残念だったな」
「……まだ、分かりません。私だって密仙国の皇族の血が流れていますから」
「そうか、皇后は密仙国の姫であったな。しかし、お前はもう碧砂国の姫だ。雲龍国が交流を強化したいのは密仙国なのだ。期待をしすぎない方がいい」
「はい」
私の肩に手を添え、励ますように兄は言った。
全然励ましにはなっていないけれど、兄の気持ちは素直に受け取っておく。
兄はいつも優しい。両親のように雪燕ばかり可愛がることなどなく、いつも妹として平等に扱ってくれていた。
いや、雪燕よりも私を大切にしてくれていた。雪燕が奇病を発症してから、皇太子である兄は雪燕に会うことを禁じられたから。
それまで妹として等分に大切にされていたけれど、それからは私だけが大切にされた。
雪燕がいなくなったから。
ああ、だからだ。雪燕がいなくなったのに、両親が私を見てくれないことに憤りを感じるのは。
兄という成功体験があったから、私は油断してしまっていたのだ。
両親や翡雲様は、兄のようにただ優しいだけの人ではないのだから、もっと立ち回りを考えなければならなかったのだ。
「大丈夫か? 顔色が悪い。舞姫となったと聞いた。辛いのか?」
「いえ、大丈夫です。でも、お兄様だけです。私を舞姫と認めてくれるのは」
そう言って作り笑いを向けると、兄は辛そうにうつむいてしまった。
「本当は認めたくないのだ」
「えっ?」
「大事な妹が、舞姫として重い責務を課せられる姿を、もう見たくなかった」
「お兄様……」
ああ、早く兄が碧砂国の皇帝にならないだろうか。そうしたら、きっとなんでも私の希望を叶えてくれるだろうに。
嬉しくて兄の胸に飛び込むと、兄は私を受け止め、ぎゅっと抱きしめてくれた。
「辛いことがあったら、すぐに言うのだぞ」
「はい」
「こうして、雪燕のことも、そばで見守りたかった」
雪燕?
今、兄が抱きしめているのは私なのに、どうしてそんな事を言うのだろう。
せっかく幸せな気持ちに包まれていたのに台無しだ。
兄にとっても、私は雪燕の代わりでしかないの?
私は兄の身体をそっと手で押しのけた。
「お兄様、疲れたので部屋で休みます」
「ああ、そうしなさい」
私は兄に礼をして別れた。
やっぱり駄目だわ。あんなに優しいだけの男が次期皇帝だなんて終わってる。
まあ、碧砂国の行く末などどうでもいい。
どうせ私は他国へ嫁ぐのだから。
それはやっぱり、周辺の国々のなかでも一番大きな国である雲龍国がいい。
次の満月の夜、翡雲様は使節団の一人として碧砂国を訪れるだろう。
そこで私の舞を見れば──。
「楽しみだわ、早く満月の晩にならないかしら」




