005 許嫁の涙
フゴフゴと生温い鼻息が頬に当たり、私は目が覚めた。
体を起こし眠い目をこすると、リウリーが不満そうに言った。
『あっ、やっと起きた。ねえ、私の皇子様が泣いてるんだけど、どうしたらいいと思う?』
「皇子様? なんのこと?」
鞠がしたくて起こしたのかと思ったけれど、どうやら違うようだ。
リウリーは真剣な顔つきで口を開いた。
『めちゃくちゃ格好良くて優しくて強くて、天が二物も三物も与えたような完璧皇子様のことよ』
「それって、泰然様が泣いているってこと?」
『あー、雪燕にとっての皇子様は泰然かもしれないけど、私は違うの。泣いている人には、どうしたらいいかしら?』
確かに、私にとっては皇子様かもしれない。
いやいや、今はそんなことを考えている場合ではない。
リウリーは真面目に悩んでいる様子なのだから。
でも、結局誰が何故泣いているのだろう。この屋敷に来れる仲良しのお友達ということは、谷に住む動物か何かだろうか。
谷の動物は毒に馴染み、普通に暮らしていると聞いている。
餌の取り合いか、縄張り争いか。
どちらにしろ、負けて悔しがっているのだろう。
「泣かせておいてあげた方がいいと思うわ。誰にでも泣きたい時はあるだろうし」
『そっか、それもそうね。今は見守ることにする』
「そうね、私は泰然様に何か手伝えることがないか聞いてくる」
『あ、でも……』
リウリーが何か言いかけている時、私は部屋の扉を開けていた。
扉を開けると屋敷の出入り口の広間に出る。
その広間の真ん中に泰然様が立っていた。
でも、一人ではない。知らない男性と一緒だった。
二人とも立ったままで、知らない男性は泰然様の肩に顔を預け、顔は見えないが啜り泣いているのが分かった。
泰然様はその彼の背中を擦ってあげている。
リウリーが言っていた私の皇子様は人だったのか。
今は声をかけるのを止めようと思い部屋に戻ろうとした時、その男性の腰に下げた玉佩が目に止まった。
金の糸を織り込んだ白い組紐に翡翠の玉佩。
見たことがある。触れたこともある。
それは私の許嫁と同じ玉佩だった。
「翡雲様……」
つい、名前を口にしてしまい、慌てて口元を手で覆う。
その声は彼には届かなかったけれど、泰然様が振り返った。私は交わった視線を反らし、部屋の中に駆け戻った。
どうして翡雲様がここにいるのだろう。
私を探しに来てくれた?
でもあんなに苦しそうに泣いていたのはどうしてだろう。
私の死を知って、悲しんでくれていたのだろうか。
しかしなぜここに?
そもそも、泰然様の知り合いなのではないだろうか。泰然様の肩を借りて泣いていたのだから。
混乱した頭の中を整理しようとしていると、扉の向こうから泰然様が尋ねた。
「入ってもよいだろうか?」
「は、はい」
「失礼する」
泰然様は一人だった。
私はホッと胸をなで下ろした。
扉を閉めると、泰然様は私のそばへ寄り小さな声で尋ねた。
「翡雲と知り合いか?」
「はい、泰然様もですか?」
「ああ、翡雲は月に一度、この屋敷に立ち寄り、秘薬作りに必要な薬剤や、日持ちする食料を届けに来てくれている。秘薬作りがここで出来るのは、彼の協力があるからだ」
なるほど、雲龍国の第二皇子が秘薬作りに協力してくれているのだ。屋敷が豪華なのも、彼の力なのかもしれない。
「そうだったのですね。もしかして、密仙国に連れて行ってくれるかもしれない方とは、彼のことですか?」
「そうだ。知り合いなら話が早いかもしれないな。翡雲は信頼できる。君の状況を説明すれば、碧砂国に伝えることもないだろう」
「いえ、言わないでください」
「なぜだ?」
なぜだろうか。自分でもよく分からなかった。
ただ、翡雲様に、私が雪燕であることを知られたくないと思ったのだ。
「私が雪燕だということは、言わないでいただけますか? 私は、翡雲様が知っている雪燕には、もう戻れません。いえ、戻りたくないのです。少し混乱していて、うまく説明できないのですが……」
泰然様は悲しそうな顔で黙ると、小さくうなずいた。
「分かった。では、君は私の親戚ということにするのはどうだ? 母方は医師の家系で、姓を雷という。母には弟がいる。君は秘薬に関心があって手伝いに来ている叔父の娘ということに」
「いいのですか?」
「ああ、それなら長くここに居ても、翡雲は変に思わないだろう。それと……翡雲とは、どのような知り合いだったのだ?」
「幼い頃からの知り合いで、兄のような存在でした。碧砂国の宴で出会い、四歳の頃に彼の許婚となりました」
「えっ、許婚?」
「はい」
泰然様は、頭を抱えて考え込んでしまった。
確かに、許婚という近しい間柄の者に黙っていてほしいとは変な話かもしれない。
何か言わなければと考えていると、扉が開き翡雲様が部屋に入ってきた。
「泰然、部屋の片付けなら自分で……え?」
私と目が合うと翡雲様は目を丸くして驚き固まってしまった。
私だと気付いた? いや、違う。翡雲様は、ニヤリと笑うと泰然様へ目を向けた。
「まさか私の部屋に女性を住まわせているとは。やっとよい人に出会えたのだな。紹介しておくれ」
泰然様の女と勘違いされてしまった。
雪燕と気づかれなかったことは良かったけれど、なんだか複雑だ。
それに、この部屋が翡雲様の部屋だったなんて。借りていた男性物の服も、翡雲様のものということだろうか。
「いや、違う。彼女は秘薬作りに関心があり手伝いに来てくれている。母方の親戚で、叔父の雷家のご令嬢だ。名は雪──」
「雪蘭と申します」
慌てて口に出した名前は、泰然様のランという音をそのまま転用させてもらった。
翡雲様は、いつも見せる優しい笑顔を私に向けた。
「良い名だな。雪蘭、泰然の親戚は私の親戚だ、これからよろしく」
「よろしくお願いします」
互いに礼をした後も翡雲様は、じっと私の顔を見ていて、視線をそらすのも失礼かと思い作り笑顔で誤魔化していると、泰然様が間に入ってくれた。
「翡雲、もう泣かなくていいのか?」
「ああ、泰然の肩を借りたら大分落ち着いた。実は……私の許嫁が、事故に……あって……」
言いながら翡雲様はまた大粒の涙をボロボロと流した。
今まで一度も泣いたところなんて見たことがなかった。
いつも笑っていて、優しく頼れる兄のような存在で、弱いところなんて一つもない人だって思っていた。
「向こうでゆっくり話を聞こうか?」
泰然様の言葉に、翡雲様は何度も頷くと、すぐ近くの椅子に腰を下ろし、泰然様も促されてその隣に座った。私はここにいて良いのだろうか。
「あの、私……」
「雪蘭は秘薬作りの手伝いできているのだろう? ならば良ければ一緒に聞いておくれ」
「……はい」
机越しの向かいの椅子を指さされ、私はその席に座って話を聞くことにした。




