第六章 ハーフミュートの恋
「えっ……日本へ、帰る?……」
夏が終わり、オーストリアの風が冷たくなり始めた頃。
玲司は帰国の時を迎えた。
玲司から帰国の日にちを伝えられ、エリアスは動揺を隠せなかった。
わかっていた。夏の間だけ修行のために来ていることは。
いずれ帰ってしまうことなど最初から知っていた。
それなのに、いざその時が来ることを目の前に突き付けられて、初めて事の大きさを理解した。
いや、恋だと気付いたからこそ、余計に今、そう思うんだろう。
「次はいつ会える?」
鍵盤を撫で、震えそうになる声を紛らわす。
「また来年の夏になる」
一年。その時間は子どものエリアスには刹那にも感じるほど。
それでも、離れたくないなど、玲司を困らせるだけの言葉は言いたくなかった。
「レイジ」
けれど、気持ちを伝えずにはいられない。
「僕のピアノは、レイジのヴァイオリン無しじゃ弾けないよ」
玲司が目を大きく見開く。
自分でもそれは呪いのような言葉だと思った。
だけど、どうかその呪いで縛られてほしい。
一瞬たりとも自分を、自分のピアノの音を忘れないでいてほしい。
「エリアス……来年の夏、また一緒に弾こう」
そう言って笑った玲司の声が、エリアスの胸に優しく残る。
エリアスはただ「うん」と小さく頷いた。
けれどその瞳の奥には、離れたくないという想いが滲んでいた。
それから数日後、二人はこの夏最後の二重奏を演奏し、しばしの別れを告げた。
———
日本。
玲司は久しぶりの自宅に戻り、
荷ほどきを終えると、そっとヴァイオリンケースを開けた。
「……静かだな」
オーストリアの楽器屋では、いつも誰かの音が聴こえていた。
エリアスの柔らかいピアノ。
店主の陽気な口笛。
街のざわめきさえ、音楽の一部みたいに感じられた。
それが今は、何もない。
窓の外から、涼しい秋風と共に、虫の声が響くだけ。
玲司はいつものようにゆっくり弓を構え、
エリアスとよく合わせた曲を奏で始めた。
最初の一音で、胸の奥がちくりと痛む。
——ピアノが、ない。
どんなに弾いても、
音が“半分”しか鳴らない気がした。
「エリアス……お前の音、こんなにも欲しくなるなんて」
自分でも驚くほど、
エリアスの顔が鮮明に思い浮かぶ。
小さな指で懸命に鍵盤を叩く姿。
目が合うと、恥ずかしそうに笑っていた横顔。
その笑みが、何度も何度も浮かんでは消える。
玲司は弓を止めた。
胸が熱くなり、
静寂の中で鼓動の音だけが響く。
「……俺、何やってんだ」
独り言のように呟いて、
玲司は額を押さえた。
今まで、一人の演奏なんて当然にしてきた。むしろ、エリアスと奏でていた二重奏のほうが、玲司のヴァイオリン人生においては珍しいことだった。
それなのに、なぜか今、ソロのヴァイオリンはいつものような音色が出ない。
いつもあるはずの自分の音への信頼や自信も、どこか欠けているように感じる。
これは、寂しい、という感情じゃない。
もっと深く、どうしようもなく惹かれていく感覚。
気づけば、一人のその演奏は、エリアスのために弾いていた。
その演奏に寄り添ってくれるエリアスの音を、思い出の中で探していた。
次第にそれは、音だけじゃなく、エリアス自身をも。
夏の日差しにきらめく金色。
涼しげで、だけど温かみのある柔らかいアイスブルーの瞳。
透けるような白雪の肌。
春風のように、優しくそっと耳に残る声。
エリアスをつくるもの全て、触れると壊れて消えてしまいそうなほどに、儚く、美しい。
——あぁ、俺……。
ヴァイオリンを胸に抱え、玲司は静かに目を閉じた。
——エリアスの音が、エリアスが好きなんだ。
オーストリアの風が、遠くから吹いてくる気がした。
その風に乗り、どこからかエリアスのピアノが、玲司の胸に語りかけていた。




