第四章 沈む音
その日、玲司が楽器屋の扉を押し開けても、ピアノの音は聞こえなかった。
いつもなら、奥のアップライトからエリアスの拙い旋律がこぼれてくるのに。
「おお、レイジか。エリアスなら、今日は来てないぞ」
奥から顔を出した店主が声をかける。
「珍しい。遅刻?」
いつも「レイジ」と嬉しそうな顔でこちらを見るのが今日は見られないと思うと、少し変な感じがする。
そう思いながらヴァイオリンのケースをおろす。
「そうじゃなくて、たぶんまた熱でも出たんじゃないか?」
その言葉が、弦を弾くように玲司の胸をかすめた。
「熱?……っていうか、またって」
当然のように言う店主に困惑した。
「ああ、そうか、レイジと会ってからは初めてか」
エリアスは昔から体が弱く、頻繁に体調を崩しているそう。
この楽器屋に来初めてからも、何度か突然来ない日が続くことがあった。
そんな時は、いつも決まって熱を出したり、倒れたりしている。
「最近はずっと調子良さそうだったんだけどな。心配だよな、長い時だと一週間以上来れない時もあるんだ。まあこればっかりはエリアスの回復を待つしかないな」
聴こえないピアノの音を探すように店内を見渡しても、そこには輝く金髪も、透き通る優しいアイスブルーの瞳も見当たらない。
外は真夏の陽射し。蝉の声がじりじりと窓を震わせているのに、店の中は妙に冷たかった。
「おじさん」
耐えきれず、玲司は店主に声をかける——。
「ここか?」
孤児院の場所を店主から聞いた玲司は、外から柵の向こう側を見る。
緑が生い茂る庭では、自分と同じくらいか、もっと幼い子どもたちが駆けていた。
どれだけ探してもあの輝く金色はなかった。
「まあそうだよな。普通体調崩してるなら部屋でいるよな」
そんな当たり前のことすら抜け落ちてしまっていた。
それくらい、エリアスと会えない日があることは、玲司の中で言いようのない気持ち悪さがあった。
会えるかわからないのに、翌日も、そのまた翌日も。
玲司は何度も孤児院へと足を運んだ。
けれどエリアスの姿を見ることは叶わず、ただ夏の日がじりじりと肌を焼くばかり。
しかし、足を運んで五日目。
その日もまたエリアスの姿はなく、諦めてまた帰ろうとした。
その時、どこからか聞き馴染みのある春風が玲司を誘った。
「!!……」
エリアスの歌声。
居ても立っても居られず、玲司は春風の導くほうへと足を速めた。
近付いたその声に柵の向こうをよく見ると、孤児院の裏庭で、ベンチに座るエリアスを見つけた。
照りつける日差しの中で、彼の肌は少し透けるように白い。
何を思っているのか、何を見ているのか。
エリアスのその姿は今にも消えてなくなりそうな天使のような、そんな儚さがあった。
「エリアス!!」
柵の向こうにいるエリアスへ、堪らず声を出す。
「レイジ?……」
アイスブルーの瞳をまん丸にして、慌てたように玲司へと駆け寄った。
「レイジ、どうしてここに?。っていうか、どうしてここがわかったの?」
「楽器屋のおじさんから聞いた。場所も、お前が熱出してるんじゃないかってことも」
「大丈夫か?」と、覗き込む玲司の表情は心配に満ちていた。
「そっか……。うん、もう大丈夫だよ。今回はまだ軽かったくらい。それに、こんなの昔から慣れっこだから」
エリアスは「心配しないで」と、うっすら笑った。
「ああ、でも……」
「でも?」
「ピアノ、弾けないと息が詰まりそうなんだ」
そう言いながら、彼は小さく咳き込んだ。
乾いた音が、夏の空気をかすかに震わせる。
玲司は思わず手を伸ばし、彼の額に触れた。
熱が、まだわずかに残っている。
「……無理すんなよ」
そう言う玲司の声に、エリアスはまぶしそうに目を細めた。
「うん、大丈夫。……すぐ、弾けるようになるから」
その言葉の“すぐ”が、なぜか玲司の胸に引っかかった。
夏空の青があまりにも高くて、どこか遠い世界みたいに見えた。
ふと、足元で羽音がした。
一匹の蝉が、石畳の上で仰向けに転がっている。
さっきまで耳をつんざいていた鳴き声が、ひとつ、またひとつ、途切れていく。
玲司は目をそらせなかった。
ひぐらしが鳴き始め、陽射しの色が少しずつ夕暮れに溶けていく。
その音が静まると同時に、玲司は思った。
——エリアスがいない夏なんて、きっと、どこにもない。




