第三章 歪んだ和音
上級生たちが去り、店の外から覗いていた人々も思い出したように各々が歩き始め、店はいつもの落ち着きを取り戻す。
「演奏すら放棄するとはな……ってお前、なんて顔してんだよ」
振り返るとエリアスがぽかんと口を開けていた。
「レイジ……君ってそんなに有名なの?」
何を言うかと思えば、そんなこと。
「今更かよ」
さっきまでの緊迫感が嘘のように、エリアスの一言で笑いだす。
「だからずっと言ってるだろ、俺は天才ヴァイオリニストだって。初めて会った時におじさんも言ってただろ?」
「確かにそうだけど、まさかそんなにだとは」
「俺は自分で言ってるだけの痛いやつじゃねーよ、ちゃんと他人からの評価もしっかりもらってるから。まあ音楽やってるやつなら当たり前だけど、最近音楽始めたばっかのお前じゃ知らなくても当然だ」
「そっか……そうだったんだ」
すごいヴァイオリニストだということは、その音をずっと聴いてきたのだから当然わかってはいた。
けれど自分の想像を超えるほどの存在だとは思わず、エリアスはこれまでの練習がいかに贅沢な時間であったのかを痛感した。
「それより、お前大丈夫か?」
「えっ?」
「指、震えてる」
「あっ」
気付かないうちに鍵盤の上の指がカタカタと小さく震えていた。
自分の存在を否定されるのなんて慣れていたのに、なぜか玲司に聞かれていると思うと怖くなった。
玲司になんて思われるだろう、そんなことを考えた。
エリアスは震える声で言う。
「ねぇ、レイジ……どうして彼らに怒ったの?」
玲司は少し顔をそむけて言った。
「ムカついたんだよ。お前の音を“汚い”って言われたことに」
エリアスの目が揺れる。
「そうだよね、せっかくレイジが特訓してくれて少しはマシになったのに」
「そうじゃない、俺のことは関係ない。ただお前の音を否定されたことに腹が立ったんだ」
「僕のために……?」
玲司は不器用に笑った。
「お前の音は、誰よりも優しい、綺麗だ。
だから、 あんなやつらに汚されるなんて許さない」
エリアスの胸が熱くなった。
世界がわかるようになった時から、ずっと施設にいた。
それが当たり前で、外の人に冷たい視線や言葉を向けられても、自分は幸せだからと気にしてはいなかった。
これが、自分の当たり前の世界なのだと。
その世界に新たにピアノという仲間が加わったのは3歳の時。
施設にある絵本でピアノを弾く物語を見つけた。
主人公の男の子が偶然出会ったピアニストからピアノを教えてもらい、大人になり、大きなコンサートを開くという物語。
男の子のきらきらとした表情と、まるで聴こえてきそうなくらい素敵なピアノの音の表現。
ピアノを弾いてみたくなった。
楽器屋の場所は、最近来た外の世界を知る子から聞いた。
施設しか知らない自分だからこそ、抜け出してもバレない時間を知っていた。
3歳のあの頃からずっと、ピアノを弾きたいと思い続けていた。
だから、どうしても諦められず、産まれて初めて一人で外の世界に出た。
一度だけだと思っていたけど、一度触れてしまえばもう戻れず、結局何度もここに来た。
おじさんはいつも優しく出迎えてくれるし、好きにピアノを弾かせてくれた。
念願だったピアノを弾くことができて、一人でそうしていた時も、もちろん楽しかった。
だけど、レイジに出会った。
レイジとの二重奏は一人の時よりずっと楽しくて。
ピアノを……自分の音をもっと好きになった。
だからこそ、そんな音を汚されることを嫌い、救ってくれたことが何より嬉しい——。
涙がひとすじ、鍵盤の上に落ちた。
「エリアス、弾くぞ」
その涙に気付いていないように、玲司はいつものようにエリアスを導く。
弓が軽やかに動く。
涙を拭うようにそっと撫で、指が鍵盤に沈む。
先程まで奏でていた挑発的な音とは違う。
白鳥が湖の上を滑るように、優雅で、美しい二重奏。
黒曜石の瞳がそっと開かれる。
アイスブルーの瞳と交わり、音はさらに輝きを増す。
レジの奥から二人の様子を見ていた店主が静かに言う。
「……おまえらの音は、奇跡みたいだな」
外では夕立の音が降り始めていた。
でも、二人の奏でる音だけは、どこまでも澄んでいた。




