第三章 歪んだ和音
夏の午後。
いつものように、玲司とエリアスは楽器屋の隅で練習していた。
窓の外から差し込む光が、ピアノの鍵盤に白い模様を描いている。
玲司の、鋭いけれど温かい音が、エリアスの、柔らかいけれど芯のある音を包む。
二人の静かな二重奏。
店主がレジの奥で帳簿をめくる音がまるで拍手のように、二人の小さなコンサートを盛り上げていた。
けれど、穏やかな空間は一瞬にして消え去る。
店の扉のベルが鳴った。
楽器ケースらしきものを持った五人の少年が、ぞろぞろと店内に入ってくる。
その顔ぶれに店主は一瞬眉をしかめ、エリアスをちらりと見る。
五人の少年たちは、街の有名な音楽教室に通う上級生たち。
二人より少し年上で、地元では“将来有望な子供たち”として知られていた。
音楽家として、だけではなく、家柄としても。
彼らはエリアスの姿を見つけるなり、鼻で笑った。
「あいつまた来てるよ、施設育ちがピアノ弾いてるなんて、滑稽だよな」
「ああ、触ると汚れるかもな」
「ピアノがかわいそー」
嫌味な笑い声が店内に響く。
エリアスは小さく肩をすくめ、何も言わずに手を止めた。
「どうせ下手で汚い音しか出せないんだから、大人しく施設に帰ればいいのにな」
わざと聞こえるように何度も言葉を放つ上級生たち。
エリアスはただその時間が過ぎるのを待っている。
玲司はそんなエリアスを一瞥したあと、弓を持ったまま、静かに立ち上がった。
「……何が滑稽だって?……何が汚いって?」
すらりと背が高く、深い黒の瞳は威圧的。
目の前に立ちはだかるその姿に、上級生たちはたじろいだ。
「は?お前誰だよ!」
「そーだ!誰だよ!っていうかお前に関係ないだろ!」
「俺たちが誰かわかって言ってんのか!?」
ひっくり返りそうになる声をなんとか踏みとどまらせて一生懸命に玲司を睨み返す。
「お前たちが誰かなんて知らねーよ。だって俺は日本から来た“天才ヴァイオリニスト”だから」
玲司は臆することなく、そう鼻で笑い、彼らを真っすぐに睨んだ。
「才能がないやつほど、他人を下に見たがる。
でも音楽ってのは、心がないやつの音なんて何も、誰にも響かねぇんだ」
一瞬、空気が張りつめた。
「なっ、なんだとっ!!」
顔を真っ赤にした上級生の一人が玲司の肩を掴もうと勢いよく手を伸ばす。
慌てて店主がすぐに止めに入った。
「おいおい!ここは楽器屋だ、ケンカする場所じゃない!」
玲司は無言でヴァイオリンを構える。
「そうだな、ここは楽器屋で、俺たちも、どうやらお前たちも演奏家だ。それなら、どっちが“汚い音”か音楽で決めればいい」
「エリアス」そう名前を呼ばれ、ようやく顔を上げたエリアスに、黒曜石の瞳が合図を送る。
弓が走る。
その瞬間、空気が変わった。
玲司の音は鋭く、けれどどこか情熱的で温かい。
エリアスの音を包み込むようないつもの音が響く。
エリアスも驚きながら誘われるようにピアノを合わせる。
二人の音が重なるたびに、空気が震えた。
通りすがりの人たちが立ち止まり、店の外に人だかりができていく。
その二重奏に、上級生たちは何も言えずに立ち尽くした。
音が終わると、静寂。
誰もがその衝撃に拍手すらも忘れていた。
「ほら、今度はお前たちの番だ」
挑発的な声が店内に響き、その声を合図のように拍手が沸き起こった。
「本当に……なんなんだよお前っ……」
悔しそうな上級生たちに、玲司は不敵な笑みを浮かべる。
「俺は日本から来た天才ヴァイオリニスト、朝倉玲司だ」
「レイジ!?」
「レイジってあの!?」
上級生たちは顔を青くする。
「ほら、お前たちの番だぞ」
弓で楽器を指す玲司。
しかしその名を聞いてしまえば、誰も楽器に触れることはできない。
「くそっ……」
「もう行こうぜっ!」
足早にその場を後にした。




