第二章 響きの庭
それからというもの、玲司は毎日のように決まった時間に楽器屋に顔を出すようになった。
その時間はエリアスが施設を抜け出して店に来る時間だった。
いつもどおりドアを開けると、すでにピアノの前にはエリアスが待っていた。
窓から差し込む陽の光を受けてきらきらと輝く金色。
透き通るように白く美しい肌に、細くスラリと伸びる手足。
鍵盤を愛おしそうに撫でる横顔は消えてしまいそうに儚い。
天使が迷い込んだ。
玲司はその言葉が頭に浮かび、一瞬息をのんだ。
「レイジ!」
ぱっと花が咲いたような笑みを浮かべ、玲司へと向けられるアイスブルー。
陰からそっと見ていた天使に見つかってしまったような感覚に、不思議といけないことをしていたような気持ちになる。
「レイジ?どうかした?」
首を傾げるエリアスの声にはっとして、ようやく店内へと歩みを進めた。
「いや、なんでも…。それより、今日も練習付き合ってやるから」
「いつもありがとう」
「別に、レッスン終わり暇だし。お前下手くそだから聴けるくらいにはしてやるから」
そんな強がりを言いながら、
玲司はエリアスの弾く音を誰よりも丁寧に聴いていた。
ときどき音がずれると、玲司はすぐに眉をひそめて止める。
「そこ! 早い! もっと、息吸ってから弾け!」
「息……?」
「そう、例えば……お前この曲歌ってみろ」
そう言ってピアノの譜面台に置かれた楽譜を指さす。
「えっ歌うの?」
「いいから」
有無を言わせない圧に、エリアスは少し恥ずかしそうにしながらそっと歌い出す。
透き通った声は伸びやかで、春風のよう。
「ピアノ下手なくせに歌上手いのかよ……」
まさかの歌声に玲司は驚きと共に、ずっと聴いていたいような、そんな気持ちになる。
「レイジ、これで大丈夫?」
歌い終えたエリアスはおずおずと尋ねる。
「えっ、ああ、大丈夫。えっと、お前歌う時息吸ってただろ?、楽器も同じだ。弾く前に音を生ませる空気がいるんだよ」
「なるほど……うん、やってみる」
もちろんすぐに上手くできる訳はなく、玲司に指摘されながら、何度も、何度も繰り返す。
けれど、そのうち外の通りを歩く人たちが足を止めるようになった。
古いガラス越しに聞こえる、小さな二重奏。
どこか寂しくて、でも優しい音色。
二人の作り上げる世界は美しいけれど誰も邪魔はできない、そんな雰囲気を感じ、店主は微笑んでそっと店の奥へ消えた。
「……やっぱり不思議だ」
休憩の合間、エリアスが小さな声で言った。
「僕、ひとりで弾くと全然ダメなのに、レイジと弾くと手が勝手に動くんだ」
玲司は顎を上げて笑った。
「そりゃ俺の音に引っ張られてるからだろ」
「ううん。違う気がする。もちろんレイジの音は追いかけてる、でも、僕がただ追いかけているというより、レイジの音が、僕を包んでくれるみたいなんだ」
玲司の弓が、ふと止まる。
「……包む?」
「うん。初めて会った時にも言ったけど、レイジの音って、鋭く冷たいようで温かいんだ。
雪の下に咲く花みたいな音」
玲司は少し照れたように、顔をそらした。
「なにそのクサイセリフ……変なこと言うなよ」
「本当だよ」
「じゃあ……お前の音は——」
その瞬間、店主が奥から顔を出した。
「おーい、おまえら!もう日が暮れるぞ!」
外はオレンジ色に染まっていた。
ふたりの影が重なり、床に長く伸びている。
「レイジ何か言いかけた?」
玲司はくるりと背中を向けヴァイオリンをケースにしまう。
「いや、なんでも……。お前明日も来るだろ?」
エリアスは嬉しそうに頷いた。
「うん。レイジが来てくれるなら」
玲司の胸の奥に、初めて聴くような“柔らかく、温かい音”が鳴った。
それが何の音なのか、このときの彼にはまだわからなかった。




