第一章 夏の調べ
午後の陽が傾きはじめた小さな街。
石畳の道に、ピアノの音が静かに流れていた。
その音を辿っていくと、角の楽器屋の扉が少しだけ開いている。
中では、少年が一人、鍵盤をゆっくりと撫でていた。
彼の指は細く、頼りない。
けれど、ひとつひとつの音に不思議な優しさがあった。
まるで言葉の代わりに、祈りを弾いているようだった。
店の奥から出てきた店主がその姿に笑みを浮かべる。
「おや、また来たのかいエリアス。いい音だねぇ」
少年・エリアスはその金髪をさらりと揺らし、小さく笑って、
「ありがとう、おじさん。でも……今日も少し、下手かも」
と、困ったように笑い、答える。
そのとき、扉のベルが鳴った。
「いらっしゃい」と店主が声をかけると、そこにいたのはエリアスと同い年くらいのヴァイオリンケースを背負った少年だった。
少年は、扉の前に立ったまま、あたりをキョロキョロと見渡した後、ズカズカとエリアスに近付き、
「今のピアノ、弾いていたのはお前?」
黒曜石のように深い二つの黒が真っ直ぐにエリアスを射抜く。
「僕だけど……」
その迫力に、エリアスのアイスブルーの瞳が揺れる。
「お前……ずいぶん下手だな」
エリアスがびくりと肩を震わせて、鍵盤から指を離す。
店主が慌てて「こら、レイジ!」とたしなめるが、少年・玲司は意に介さない。
「音がバラバラだ。テンポもズレてるし、左手のタッチが甘い。これじゃあ楽譜なんてあってないようなものだ、おかげでなんの曲なのかわからなかったぞ」
言いたい放題。
楽譜を覗き込む玲司に、エリアスは怖々と口を開き、
「……君、誰?」
「俺? 日本から来た朝倉玲司。ヴァイオリン弾いてる。お前は?」
「僕はエリアス……エリアス・ベルクマン」
「エリアス、お前ピアノは今日が初めて?」
「えっと、ここで何度か、たまに……最近は毎日かな、弾かせてもらってる」
「毎日?そっか、レッスンが今日は早く終わったから時間がずれてたから会わなかったのか……」
何やらぶつぶつと独り言を言う玲司にエリアスは緊張感で指を振るわせる。
「っていうか、なんでここで?そんなにピアノ興味あるなら自分家で弾けば?」
その玲司の言葉に、エリアスは一瞬躊躇ったが、正直に答える。
「僕、二つ先の通りの角にある施設で暮らしてるから……だからピアノ、ここじゃないと弾けないんだ」
玲司の返答にびくびくとしていると、
「へぇ、なるほど。だからここで練習してるんだ? ……なぁ、一緒に弾こうぜ」
玲司の突然の提案に、エリアスは目を丸くした。
いつも他の客たちからは“また施設の子がいる”と冷ややかに視線を向けられていた。
けれど玲司はそんなもの気にも留めない。
ただ当然のように、ケースを開けてヴァイオリンを取り出した。
「おじさん楽器屋のくせに楽器弾けないからな。知識だけはやたら豊富だけど。だからお前、おじさんから何も教わったりできてないだろ」
「悪かったな、知識だけの楽器屋でよぉ!」
淡々とまた言いたい放題な玲司に、店主は苦笑い。
そんな店主のことなどお構いなしに、ヴァイオリンを構える。
「エリアス、俺の音に合わせてみなよ。たぶん、それなら弾ける」
玲司が視線を送るが、エリアスは困惑で指を動かせない。
「エリアス、レイジは天才ヴァイオリニストだ!せっかくだから一緒に弾いてみな!」
店主の明るい声に、エリアスは少し迷ったあと、そっと鍵盤に触れる。
ヴァイオリンが歌い出し、ピアノがその旋律を追いかけた。
最初は不揃いだった音が、少しずつ重なっていく。
街の喧騒の中で、
楽器屋の古びたガラス窓がわずかに震えた。
店主が笑いながら言う。
「こりゃあ新しい“二重奏”の始まりだな」
音がやんだあと、エリアスがぽつりと呟いた。
「……君の音、きれいだね。なんていうか、鋭さの中に情熱と温かさが詰まってるような」
自他共にヴァイオリンの天才だと信じて疑わず、それが当たり前だと思っていた。
けれどそう真っ直ぐと感想を述べられたのは初めてで、玲司は、照れ隠しのように目線を逸らした。
「そっちこそ、下手だけど悪くない」
それが、二人の最初の出会いだった。




