第十章 高嶺のアルペジオ
「エリアス、体調は?」
玲司が神谷律という、生意気な弟子を迎え入れてから数ヶ月。律に会う前こそ文句を言っていた玲司だったが、今や一週間に二〜三日ペースでレッスンをおこなっている。
このところ、エリアスも、同じく迎え入れた生徒・ノエルのレッスンを同じペースでおこなっている。
加えて、ソロ活動やデュオ活動など、もともとの予定もあり、二人はかなり忙しい日々を過ごしていた。
この頃エリアスの体調は安定しているとはいえ、いつ何があるかわからない。
忙しさのあまり、エリアスが倒れないか、玲司は気が気ではなかった。
だから、久々の二人きりの休日。エリアスの家でくつろぎながら、玲司はいつものように尋ねる。
「大丈夫だよ。いつも心配させてごめんね。最近はノエルのレッスンがメインだし、ゆっくりしてるよ」
「そうか。ノエルはどんな感じなんだ?」
エリアスの顔色のよさに安心しながら、エリアスの生徒・ノエルについて尋ねる。
エリアスは紅茶を一口。そして優しく微笑む。
———
いつものようにエリアスの家でレッスン。ノエルはピアノを初めてまだ半年とのこと。それでも半年とは思えないほどの、音を捕らえる感覚のよさ。
将来自分をも越える存在になれるはずだと、そう期待が高まる。
「ノエル、今のところちょっとぎこちないね」
しかしまだまだ先は長そう。
ノエルが躓いたところを指摘し、そっと隣から鍵盤に触れる。
「いいかい、聴いていて」
美しいアルペジオ。
儚いけれど、一筋の光のようにな強さも含まれたエリアスの音。
ノエルはただ息をのむ。
「ノエル、音って撫でることもできるんだよ」
優しく指を導き、ノエルが真似をする。
まだまだぎこちない。
「先生の音にはまだ遠く及ばないですね」
苦笑いをするノエルに、エリアスはくすりと笑う。
「そうだね、僕の音は特別な特訓を受けてきたから」
「特別な特訓?」
「天才ヴァイオリニストからね」
「レイジさん、ですね」
ノエルの言葉に静かに頷く。
すると、ノエルは少し困ったような顔をする。
「先生の音には近づきたいです。けど……レイジさんちょっと近寄りがたいから……僕にはあの人のレッスンは向かないかもしれないです」
小学生の子どもらしい、その率直な言葉に、エリアスは笑いだした。
「そうだよね、レイジって近寄りがたいよね」
忘れていたけど、確かに最初に出会ったレイジの印象は自分も同じだったな。なんて、そんなことを考えながら、ノエルの言葉に再度笑った。
———
「ふふっ」
「なんだよ、一人で笑いだして」
「ううん、なんでも。ノエルはちゃんと毎日成長してるよ。リツのほうはどうなの?」
玲司はコーヒーを一口飲み、先日のことを思い出す。
———
「違う。弓は押すんじゃない。息を吸うみたいに自然に落とすんだ」
玲司からの指導に首を傾げる律に、玲司は自分のヴァイオリンをそっと構え、
「聴いてろ」
短く美しいアルペジオ。
同じアルペジオでも、律の奏でる音とは、まるで違うように聞こえる。
きっとこの音はこの先何年も、ずっと記憶にこびりつく。忘れようとしても、忘れさせてなどくれない。それほどに刻まれる。
そんな気がした。
——悔しい……。
律はそっと弓を強く握り直した。
「いいか、確かにお前はセンスがある。だから今までは弓動かせばそれなりの音は出せていたんだろう。でもな、ヴァイオリンってそんな甘くない。もっと上手くなりたいのなら、今の弾き方じゃダメだ」
「はい……師匠」
これまで自分を教えてきた先生たちの音は、教えられればすぐに弾けた。
なんなら、自分のほうが上手くできた。
だからこそ、ヴァイオリンの先生など必要ないと思っていた。
しかし、律は、自分が井の中の蛙であったことを、玲司に出会って知った。
最初こそ、生意気な態度をとっていたが、格の違いをまざまざと見せつけられ、律は大人しく、玲司の言うことを聞くことにした。
———
「まあ、最近はだいぶマシになってきたかもな。音も態度も」
そう言って玲司はコーヒーをもう一口。
「レイジ、弟子をとってよかったでしょ?」
「……っていうか聞きそびれてたけど、なんで俺だったんだ?」
そういえば、なんとなくしか聞けていない。楽器屋の店主がエリアスに話を持ち込んだのも、エリアスがそれに従ったのも。
玲司からの質問に、エリアスは柔らかく笑う。
「レイジは、自分が教師向きじゃないって言ってたよね?。でもね、楽器屋のおじさんは、僕に教えていたレイジなら、きっと上手く教えてくれるって思ったみたい。それを聞いて、僕も確かにそうだなと思ったんだ。それにほら、どこか似てるでしょ?リツって子どもの頃のレイジに」
「似てないだろ。俺はあんな下手じゃない」
心外だと言わんばかりに顔をしかめる玲司。エリアスはその顔にくすくすと笑う。
「確かにレイジのほうが上手かったよ。でもさ、どことなく音が似てる。あとは何より、自分に対する自信とか、少し生意気そうな態度とか」
そう言われ、自分でも少なからず思い当たる節があるのか、玲司は何も言えずそっぽを向いた。
「デュオもなかなかできなくて、レイジが最近退屈そうだから、いい刺激になればと思ったのは本当。でもね、結局一番は、僕が見たかったからかな」
「何を?」
「あの頃、僕に教えてたかっこいいレイジを、今のレイジの姿で。だから見られて嬉しい」
「そうかよ……」
「でも」と何か言いたげなエリアスに、玲司は「でも?」と先を促す。
「でも、予想以上にかっこよくて、少しリツに嫉妬するかも」
いたずらっ子のように笑うエリアス。
「なん……だよ……それ」
玲司は赤くなった頬を隠すように、口元に手をやる。
「ね、レイジ。弟子をとってよかったでしょ?」
先ほどは答えず誤魔化した質問を再度。今度は逃すまいと、アイスブルーの瞳がまっすぐに捕らえてくる。
「ホント……お前には敵わないな」
観念したようなその言葉に、エリアスは満足そうに笑った。
「エリアス、休日なんだからもうこの話はやめよう。それより」
咳払いを一つして、玲司はエリアスの手を引き、ソファーへと誘導する。
「今は二人の時間だろ?」
ソファーに座るエリアスの頬に触れる右手。
近づく黒曜石の瞳に、エリアスは我慢できず目をそらす。
「いつまでもそうやって可愛い反応して。いい加減慣れたらどうだ?」
「慣れないよ……。レイジに対する気持ちは日々大きくなるんだから」
真っ赤な顔でそう言われ、玲司は満足そうに笑う。
「まあいいさ。今日はまだ始まったばかりだからな」
窓から差し込む光が強く、玲司はそっとカーテンを閉めた。




