第七章 手のひらの天使
大病院の白い廊下を、玲司は早足で歩いた。
何通もやり取りした手紙の中で、
エリアスはいつも「元気だよ」と書いていた。
けれど、
病室の扉を開けた瞬間、息が止まった。
ベッドの上で困ったように微笑むエリアスは、
まるで光そのものだった。
今にも消えてしまいそうで。
「……レイジ?」
その声は、春風などではない。
さらさらと落ちるように、かすかだった。
「おい、なんだよ……手紙と全然違うじゃねぇか」
「心配させたくなかったんだ」
エリアスは弱く笑った。
「レイジ、どうしてここに?」
エリアスは留学ことを知らない。
玲司からの手紙を読んでいないから。
この場所にいることは楽器屋の店主から聞いた。
そして、エリアスの病状が悪化して、ついに倒れたということも。
エリアスが病院に運ばれたのは、玲司からの手紙が届く一日前だった。
玲司からの説明を聞き、エリアスはまた困ったように微笑む。
「言えよ、入院してるって」
自分の手紙を読んでいないことは仕方ない。
だけど、なぜ手紙を寄越してくれなかったのか。
体調が悪いなら、代筆を頼むなりして、とにかく病院にいることを伝えてくれてもよかったはずなのに。
「夏じゃないのに、レイジを来させるわけにはいかないよ」
「なんだよ……それ」
「レイジなら、僕からそんな手紙を受け取れば、すぐにでもここに来ると思った。でも、レイジは世界を変える存在だから。そんなレイジの時間を、僕なんかが奪うわけにはいかないよ。レイジの時間をもらえるのは夏限定なんだから」
伏せられたアイスブルーが、まるで泣いているように見えた。
玲司は何も言えなかった。
代わりに椅子を引き寄せて、
エリアスの手をそっと握った。
冷たい。
けれど、その指先は確かに生きていた。
「なぁ、エリアス」
「うん?」
「俺、今もお前と弾きたい」
「……僕もだよ」
「夏じゃなくても、ずっと……。夏だけじゃ足りない」
「僕もだよ……でも僕なんかが」
そっと手を離そうとするエリアスの手を、離さないようにしっかりと力を込める。
「なんかじゃねぇ。お前は気付いてないかもしれないけど、お前の音はもう十分に唯一無二になっている。俺と同じレベルになって、俺と肩を並べられるほどの実力を、お前はつけてる」
黒曜石の瞳がまっすぐに射抜く。
玲司が、嘘やお世辞は言えないことを知っている。
その瞳からも、玲司の想いを感じられる。
「頑張ってきてよかった……。レイジのそばにいるために、レイジの音にずっと寄り添い続けるために……ただ、そのために続けてきたんだ」
ただ興味があって、好きでしていただけのピアノ。
それがいつしか、玲司と自分を繋ぐ唯一のものとなっていた。
だからこそ、玲司のいない日々でもピアノを続けてこられた。
続けていれば、玲司の音を誰にも取られずに、自分だけのものにできるんじゃないか、なんて。
そんなことを、おこがましいとわかっていながらも、思い描いていた。
「エリアス、
“ピアノはヴァイオリン無しじゃ弾けない”。
お前はよく言うよな。
でもな、エリアスに何かあったんじゃないかって思った時、俺は初めてヴァイオリンが弾けなくなった。
いや、もっと前から。初めて出会った夏の終わり、お前の音を探したあの日から。
ヴァイオリンはピアノ無しじゃ弾けない」
二人の視線が絡む。
アイスブルーの瞳がゆっくり揺れた。
「エリアス」
玲司は一度息をのみ、
瞬きをひとつして、まっすぐエリアスを見つめた。
「俺、お前のことが好きだ」
揺れたアイスブルーの瞳が、今度は驚き、戸惑い、そして涙。
「エリアス、お前の音を聴くたびに、お前のことを少しずつわかるようになった。何が好きで、何が苦手で、何を思ってこの世界を見つめているのか。それを知るたびに、俺は嬉しくて仕方がなかった。
俺に向けられる声も、笑顔も、ずっと俺だけのものならいいと思った」
「レイジ……」
「俺は、初めて出会ったあの時から、お前のことを天使のようだとずっと思ってた。
触れてはいけないと思った。壊れてしまいそうだから。
だから……ずっと想いをしまっていた。
でも、俺はお前をこの手のひらに落としたい。
消えてしまう前に、ちゃんと掴んでおきたいんだ」
その言葉に、エリアスは震えるように笑った。
「……嬉しい」
一筋の涙が頬を伝う。
「僕には到底追いつけない世界にいると思った。そんなすごい人なのに、僕のピアノを包んでくれる音をいつも弾いてくれる。
冷静で、感情の起伏を他人に見せない。でも、音で、僕にいつも伝えてくれる。
それを、ずっと独り占めしたいと思ってた」
「エリアス」
「僕も、君が好きだよ」
玲司はエリアスの手を強く握り、額を寄せた。
窓の外では、雪が静かに舞い落ちていた。
まるで、天から祝福が降っているみたいに。




