第九話:食戟、開幕。
決戦の当日。王都の広場は、かつてないほどの熱気に包まれていた。
広場の中央には、この日のために特設された巨大な舞台が組まれ、そこには寸分違わぬ二つの厨房が設えられている。舞台の上には、審査員たちが座る長テーブル。そして、その舞台を囲むように、貴族、商人、職人、平民……あらゆる身分の者たちが、歴史的な一戦を見届けようと、黒山の人だかりを作っていた。
「さあ、両者、舞台へ!」
司会役を務める式部卿の甲高い声が、広場に響き渡る。
まず舞台に上がったのは、食料ギルドが誇る料理長、アントワーヌ。完璧に整えられた髭に、染み一つない純白の料理服。彼は「古典の皇帝」の異名を持つ、伝統と格式の体現者だった。その瞳は、後から登壇した俺を、明確な侮蔑の色で見下ろしている。
対する俺は、いつもの簡素な仕事着だ。肩には、緊張と興奮で羽を小刻みに震わせるポポが乗っている。観衆の反応は様々だ。無謀な挑戦者を嘲笑う者、そして、万に一つの奇跡を信じて声援を送る者。
「では、これより食戟を執り行う! テーマは、『王室のグリフォンの卵』! 制限時間は、鐘二つ分(およそ二時間)! 両者、準備はよろしいかな?」
ゴオオオッ、と観衆の歓声が地鳴りのように響く。俺とアントワーヌの前に、それぞれ黄金色のグリフォンの卵が置かれた。
「始め!!」
開始の合図と共に、アントワーヌは動いた。その調理は、まるで演劇のようだった。数人の助手を従え、魔法のコンロでいくつもの鍋の火力を精密に操り、高価そうな調理器具を華麗に使いこなす。
「私が作るは、至高の一品! 『黄金の戴冠スフレ』! 王の戴冠式でのみ献上される、伝説の菓子だ!」
アントワーヌは高らかに宣言し、観衆を沸かせる。バターと砂糖が熱せられる甘い香りと、濃厚な卵の匂いが、彼の陣営から広場全体へと広がっていく。
一方、俺の厨房は、静寂に包まれていた。
助手はいない。俺はまず、誰にも理解できない作業――昆布と、干したキノコで「出汁」を引くことから始めた。観衆は、俺の不可解な行動に戸惑っている。
「おい、あの小僧は何をしているんだ? ただのお湯を沸かしているだけじゃないか?」
「パフォーマンスも何もない。つまらん男だ」
俺は、そんな野次には一切耳を貸さず、己の作業に集中する。出汁と卵を丁寧に合わせて濾し、小さな器に注ぎ分ける。そして、簡素な蒸し器の中へ、そっと収めた。派手さはない。だが、そこには確かな自信と、料理への敬意があった。
時間は、刻一刻と過ぎていく。
アントワーヌのスフレは、オーブンの中で、王冠のように雄々しく、そして美しく膨らんでいく。対して、俺の蒸し器からは、湯気が立ち上るばかりで、何の変化も見られない。誰もが、アントワーヌの圧勝を確信していた。
エリアーナだけが、静かな笑みを浮かべて俺の手元を見つめている。審査員席のギムレットは、難しい顔で腕を組み、黙って俺の作業を睨みつけていた。
そして、終了の鐘が鳴り響く、その直前。
「見よ! これぞ我が芸術の集大成だ!」
アントワーナは、完璧に焼き上がった黄金のスフレをオーブンから取り出し、純白の皿の中央に据える。仕上げに、金粉のように輝く粉砂糖を振りかければ、まさに王に捧げるにふさわしい、威風堂々とした一皿が完成した。うおおおっ、と割れんばかりの歓声が上がる。
それとほぼ同時に、俺も蒸し器から、そっと器を取り出した。
飾り気のない、小さな陶器の器。その中には、フルフルと震える淡い黄金色の液体が満たされているだけ。俺はその上に、小さなハーブの葉を一枚だけ飾り、澄んだスープと、塩味のクラッカーを添えた。アントワーヌの皿と比べれば、あまりに地味で、あまりに慎ましい。観衆の熱気は、急速に失望へと変わっていった。
「時間終了ーーーっ!!」
非情な鐘の音が、広場に鳴り響く。
舞台の上には、対極的な二つの皿が並んだ。
天にそびえる、豪華絢爛な「王」。
地に佇む、静謐で素朴な「民」。
勝敗の行方は、もはや誰の目にも明らかに見えた。だが、本当の勝負は、ここから始まる。審査員たちが、無言でレンゲとスプーンを手に取った。