第八話:決戦のテーマは「王室のグリフォンの卵」
ギルドの監査官ボルマンが、尻尾を巻いて逃げ帰った後の『食堂ヒビキ』。先程までの熱狂はどこへやら、店内には緊張と興奮が入り混じった、奇妙な静けさが漂っていた。
「まさか、食戟だなんて……エリアーナ様も、とんでもないことを」
俺の言葉に、エリアーナは悪びれもせずに優雅に紅茶をすする。
「あら、一番面白そうじゃない。それに、中途半端に追い払っても、ギルドはネズミのようにしつこく嫌がらせを続けたでしょう。ここで一度、彼らの鼻っ柱をへし折っておくのが一番よ」
彼女は続ける。食料ギルドは、単なる料理人の集まりではない。王国の食料流通を支配し、多くの貴族や商人と癒着する巨大な権力組織だ。今回の食戟は、単なる料理対決ではなく、旧来の権威と新しい波との、代理戦争の意味合いを持つことになるだろう、と。
「相手にとって不足はない、というわけですか」
「そういうこと。ギルドも、負けられない戦いになる。おそらく、ギルド長が抱える最高の料理人を出してくるわ。伝統的な宮廷料理の達人でしょうね」
翌日、エリアーナの交渉により、食戟の正式な取り決めが交わされた。決戦は三日後、王城前の広場に特設される舞台で行われる。
そして、対決のテーマが発表された。
「『王室のグリフォンの卵』……ですか」
それは、この国で最も希少で、最も高貴とされる食材だった。王家の管理する特別な森でしか飼育されていないグリフォンが、年に数個しか産まないという幻の卵。その味は、あらゆる卵の常識を覆すほど濃厚で、滋味に溢れているという。当然、俺は見たこともなければ、もちろん食べたこともない。
「ええ。ギルド側が指定してきたテーマよ。あなたのような素人に、最高級食材の扱いは不可能だろうという、彼らなりの揺さぶりね」
「なるほど。面白い」
挑戦的で、実に面白い。俺は不敵に笑った。
「エリアーナ様、お願いがあります。そのグリフォンの卵、一つ手に入れていただけませんか? 練習用に」
「もちろん、そのつもりよ」
エリアーナが手配してくれたグリフォンの卵は、ダチョウの卵ほどもある巨大さで、殻はうっすらと黄金色に輝いていた。これが、一個で家が一軒建つと言われる幻の食材か。
俺は慎重に卵を割り、まずはその味を確かめる。レンゲで黄身をすくい、口に含む。
「……ッ!」
凄まじい。脳天を殴られるような、圧倒的なまでのコクと旨味。舌の上でとろりと溶け、クリームのように鼻腔を抜けていく芳醇な香り。しかし、あまりに濃厚すぎる。普通の卵と同じ感覚で調理すれば、その強すぎる個性に料理が負けてしまうだろう。
「これは……一筋縄ではいかないな」
俺は厨房に籠り、試作を繰り返した。オムレツにすれば、あまりの濃厚さに数口で飽きてしまう。パン生地に混ぜ込めば、生地が重くなりすぎて膨らまない。まさに、料理人の技量を試す食材だった。
「どうする、ヒビキ……」
腕を組み、思考を巡らせる。相手は、この卵を使い慣れた宮廷料理の達人。豪華絢爛な、伝統の料理で挑んでくるに違いない。同じ土俵で戦っても、勝ち目はない。
俺が作るべきは、豪華さではない。この卵の本質を、最も輝かせる一皿だ。
その時、脳裏に、前世の記憶が蘇った。師匠が俺に教えてくれた、日本料理の哲学。「引き算の美学」。素材の味を最大限に活かすため、余計なものは削ぎ落としていく。
そうだ。これしかない。
俺は、一つの結論にたどり着いた。作るべきは、この世界には存在しない、究極の「蒸し料理」。
俺は残った卵を使い、最後の一つの試作品に取り掛かった。丁寧に濾した卵液に、俺が作り出した最高の「出汁」を合わせる。味付けは、ほんの少しの塩のみ。それを小さな器に入れ、慎重に火加減を調整しながら、蒸し器にかける。
やがて、蓋を開けると、そこにはフルフルと震える、淡い黄金色の宝石が鎮座していた。
「ポポ、味見を頼む」
俺はその表面をレンゲですくい、一番の味方であり、一番厳しい審査員であるポポの口元へ運んだ。
ポポは、小さなスプーンに乗ったそれを、ぱくりと口に含んだ。
次の瞬間、ポポの動きが、完全に止まった。いつもうるさく羽ばたいている羽も、ぴたりと静止している。
そのエメラルドのような瞳から、一粒、また一粒と、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ヒビキ……」
ポポは、震える声で、ささやいた。
「これ……なに……? ふわふわで、あったかい雲を食べてるみたいだ……お日様の味がする……」
その言葉を聞いて、俺は静かに微笑んだ。
「これは『茶碗蒸し』。俺の故郷の料理だよ」
勝てる。俺は、確かな手応えを感じていた。
食戟まで、あと二日。王都は、歴史的な一戦を前に、熱狂の渦に包まれ始めていた。