第五十話:天空の都と、風の民の試練
甘き惰眠から目覚めた熊たちとの間に、温かい友情を育んだ俺たちは、彼らからの心からの見送りを受け、次なる目的地、ヴァロリア最後の秘境、『天空の都アエリア』へと向かった。
黄金谷を出て、西へ。大地は、再びその姿を変え始めた。なだらかな丘陵地帯は、やがて、天を突き刺すかのような、峻険な大山脈へと続いていく。道は険しく、馬車での進行は困難を極めた。
「ヒビキ殿、これより先は、我らの馬では進めません。ここからは、自らの足で、この山を越えるしか……」
近衛騎士の一人が、険しい顔で進言する。その時だった。
空から、口笛のような、澄んだ鳴き声が、いくつも響き渡った。見上げると、巨大な鷲や鷹のような、翼を持つ鳥人たちが、優雅な円を描きながら、俺たちの頭上を旋回している。彼らが、この山脈を統べる『翼の民』だ。
やがて、一人のひときわ大きな、純白の翼を持つ鳥人が、音もなく、俺たちの前に舞い降りた。その顔立ちは、猛禽類のように精悍でありながら、どこか気高い知性を感じさせる。彼が、この天空の都の長、隼の獣人、ファルコだ。
「人間の料理人、ヒビキ殿とお見受けする。ようこそ、我らが空の領地へ。王からの知らせは、風の便りで、既に届いている」
ファルコの言葉遣いは、これまで出会ったどの獣人よりも、洗練されていた。だが、その声には、地上を歩く者たちに対する、絶対的な優越感と、簡単には心を開かない、高潔な壁のようなものが感じられた。
彼は、俺たちの足元を一瞥すると、静かに言った。
「その足で、我らが都へ登るのは、不可能であろう。我が民が、汝らを、都まで案内しよう」
ファルコが合図をすると、数人の若い鳥人たちが、巨大な籠を運んできた。それは、人間を乗せて、空を運ぶためのものだった。俺たちは、その籠に乗り込み、鳥人たちの力強い翼によって、文字通り、空へと舞い上がった。
眼下に広がる、絶壁と、雲海。その壮大な光景に、生徒たちは、ただ息をのむ。
そして、雲を突き抜けた先に、その都はあった。『天空の都アエリア』。それは、山脈の最も高い頂に、白い石と、ガラスのような鉱石で築かれた、壮麗な都市だった。建物は、鳥の巣のように、優美な曲線を描き、そこかしこで、風の力を利用した、風車が、ゆっくりと回っている。
俺たちが案内されたのは、都で最も高い塔の、頂上にある、吹き抜けの広間だった。そこからは、ヴァロリアの広大な大地が、一望できた。
ファルコは、その絶景を背に、俺たちに向き直った。
「ヒビキ殿。我ら翼の民は、他の獣人たちとは、少し違う。我らは、力強い肉を貪ることも、甘い蜜に溺れることもしない。我らが食らうは、風。そして、空の恵みのみ」
彼らの主食は、高山でしか採れない、特殊な穀物と、雲の中に漂う、微細な魔力を帯びた水滴なのだという。その食事は、彼らの体を、どこまでも軽く、そして飛翔に適したものに保つため、極限まで、削ぎ落とされたものだった。
「我らは、食に、喜びや、楽しみは求めない。それは、我らの誇り高き飛翔を妨げる、ただの重りに過ぎぬからだ」
ファルコは、静かに、しかし、絶対的な自信をもって、そう言った。そして、俺に、最後の試練を、突きつけた。
「貴殿の料理が、魂を動かすというのなら、やってみせるがいい。我ら、風と共に生きる民の、その誇り高き魂を、揺さぶる一皿を。ただし、条件がある」
彼が示した条件は、あまりに苛烈だった。
「貴殿の料理に、我らが食さぬ、地上の食材――肉、魚、そして、甘き果実の類を、一切使うことは、許さない。我らが口にする、空の恵み……穀物、高山植物、そして、雲の水滴。それだけで、我らを、満足させてみせよ」
それは、俺が、これまで培ってきた、武器のほとんどを、封じられるに等しかった。肉の旨味も、魚の出汁も、果実の甘みも使えない。あるのは、味の薄い穀物と、僅かな山菜だけ。
「もし、貴殿の料理が、我らの誇りを、地に落とすような、重く、鈍重なものであったならば、貴殿らは、二度と、その翼を、広げることはできないだろう」
最後の試練。それは、俺の料理哲学そのものが、問われる戦いだった。美食の豊かさを追求してきた俺が、全てを削ぎ落とした、ミニマリズムの世界で、果たして、答えを見出すことができるのか。
生徒たちが、絶望的な表情で、俺を見つめている。
だが、俺の心は、不思議と、静かだった。俺は、眼下に広がる、果てしない雲海を見下ろした。そして、この試練の、本質を理解した。
俺が作るべきは、「味」ではない。「食感」と「香り」。そして、何よりも、彼らが愛する「軽やかさ」そのものを、一皿の上で、表現するのだ。
俺は、ファルコに向き直り、静かに、しかし、確かな自信をもって、頷いた。
「承知いたしました。お見せしましょう。地に足のついた人間が作る、誰よりも、空に近い料理を」
ヴァロリアにおける、俺の旅の、最後の戦いの火蓋が、今、切って落とされた。それは、俺の料理人としての、全ての経験と哲学が試される、最も困難で、そして最も創造的な、挑戦だった。




