第四十七話:狼の領地と、群れの掟
百獣の都の喧騒を背に、俺たちの、本当の意味での旅が始まった。
もはや、俺たちは、客人でも、挑戦者でもない。国王から正式に任命された、『食文化交流大使』だ。その最初の目的地として、俺は、フェンリス卿の故郷である、北方の『狼の森』を選んだ。
エリアーナの尽力により、旅の隊商は、以前よりも小規模で、機動性に富んだものになった。メンバーは、俺と、助教として、そして相棒として、風格すら漂い始めたレオ。分析官として、ヴァロリアの食文化の記録を任されたカイン。繊細な感性で、未知の食材との出会いを求めるリリア。そして、故郷の仲間たちとの再会に、心を躍らせるドルガン。エリアーナと、護衛として少数の近衛騎士が同行する。
北へ向かうにつれ、都周辺の開けた大地は、次第に、険しい山々と、どこまでも続く、深い針葉樹の森へと姿を変えていった。空気は、ひんやりと澄み渡り、時折、遠くから、狼の遠吠えが聞こえてくる。それは、俺たちを歓迎するものではなく、自らの領地の存在を主張する、誇り高い宣言のようだった。
数日の旅の後、俺たちは、狼族の民が住まう、最大の集落『銀牙の里』に到着した。里は、天然の砦のように、険しい岩壁と、古代の巨木に囲まれており、入り口には、鋭い牙を模した、巨大な木の門がそびえ立っている。見張りの狼たちが、俺たち人間の一団に、油断のない、鋭い視線を向けていた。
門の前では、フェンリス卿が、一人で俺たちを待っていた。彼の表情は、都にいた時よりも、穏やかで、戦士としての野性が、その全身から漲っている。
「ようこそ、ヒビキ殿。我が故郷へ」
だが、彼の歓迎の言葉とは裏腹に、里の空気は、冷たく、そして張り詰めていた。フェンリス卿の後ろに控える、他の狼たちは、俺たちに、あからさまな敵意と、不信感を向けている。彼らにとって、フェンリス卿が、人間である俺に敗北し、そして、その道を認めたことは、一族の誇りを傷つける、屈辱的な事件として伝わっていたのだ。
特に、一族の長老であり、フェンリス卿の父親でもある、隻眼の老狼、ヴォルフは、俺たちを、値踏みするような、厳しい目で睨みつけていた。
「父上。彼らが、国王陛下より、我が国との友好の任を託された、ヒビキ殿とその一行です」
フェンリス卿の紹介にも、ヴォルフ長老は、眉一つ動かさない。彼は、静かに、しかし、腹の底に響くような声で言った。
「フェンリスよ。お前の目は、都の甘い生活で、曇ってしまったようだな。我ら狼の民は、力と、そして何より、『群れの掟』によって生きている。その掟を理解できぬ者に、我らの友となる資格はない」
そして、ヴォルフ長老は、俺に、一つの試練を突きつけた。
数日前、この里では、数年に一度の、大狩猟が行われたという。里の全ての狩猟隊が協力し、山のように巨大な魔牛『角砕き』を仕留めたのだ。だが、その後の、肉の分配を巡って、二つの大きな狩猟隊の間で、深刻な対立が生まれてしまったのだという。どちらも、自分たちの功績こそが最大だと主張し、最も名誉ある部位を譲ろうとしない。その対立は、里全体の結束を揺るがす、一触即発の状態にある、と。
「料理人ヒビキよ。貴様が、真に、魂と対話できると、言うのなら、やってみせよ」
ヴォルフ長老は、広場に横たえられた、巨大な魔牛の亡骸を指差した。
「この、争いの種となった、一頭の牛から、全ての民が納得し、再び、一つの群れとして結束できるような、饗宴を、お前の手で、生み出してみせろ。もし、それができたなら、我らも、お前を、客人として認めよう。だが、もし、できなければ……」
その先の言葉は、言う必要もなかった。
俺は、そのあまりに重い試練を、静かに受け入れた。
俺は、まず、対立する二つの狩猟隊のリーダーを、厨房へと呼んだ。そして、彼らに、解体を手伝うよう、命じた。最初は、反発していた彼らも、俺が『魂喰い』を手に、彼らの知らない、緻密な解体を始めると、次第に、その動きに引き込まれていった。
俺は、肉を、ただ切り分けるのではなかった。
「この首周りの肉は、群れを守るために、常に敵を警戒していた、彼の誇りだ。だから、硬いが、味は深い。これを、ただのステーキにしては、その誇りが、泣いてしまう」
俺は、その硬い肉を、たっぷりの香味野菜と共に、巨大な寸胴鍋に入れ、一晩かけて、じっくりと煮込み始めた。厨房には、やがて、里の誰もが経験したことのないような、深く、そして優しい、魂を癒すようなスープの香りが、満ち始める。
翌日。俺は、里の広場の中央に、その巨大な寸胴鍋を据えた。そして、対立する二つの狩猟隊に、それぞれ、異なる役割を与える。一方には、俺が丁寧に火入れした、柔らかいロースの部分。もう一方には、様々な食感の野菜と、俺が調合した、特製のハーブ。
そして、俺は、集まった全ての狼の民に、宣言した。
「これが、『和解のスープ』だ! ルールは、ただ一つ。この中央の鍋から、魂のスープを、自らの器に注ぐ。そして、向かい合う者たちと、肉と、野菜を、交換しなければ、最高の一杯は、完成しない!」
最初は、誰もが、戸惑っていた。長年のライバルから、施しを受けることなど、彼らのプライドが許さない。
だが、極上のスープの香りが、彼らの頑なな心を、少しずつ、溶かしていく。
やがて、一人の若い狼が、意を決して、対立する狩猟隊の者へと、自らの肉を差し出した。相手も、戸惑いながら、野菜の皿を、差し出す。
そうして完成した、最初の一杯。それを口にした瞬間、二人の狼の顔が、驚愕と、そして、深い感動に、変わった。
肉の旨味、野菜の甘み、そして、全ての魂を優しく包み込む、スープの滋味。それらが、口の中で、完璧な調和を生み出していた。
その光景が、全ての始まりだった。一人、また一人と、獣人たちは、自然に、食材を交換し始める。そこにはもう、対立も、意地もなかった。ただ、同じ釜の飯を分け合い、その美味さに、共に笑い合う、一つの「群れ」の姿があった。
その輪の中心で、ヴォルフ長老は、一杯のスープを、静かに味わっていた。そして、その隻眼から、一筋の涙が、静かに流れ落ちたのを、俺は見逃さなかった。
饗宴が終わる頃、ヴォルフ長老は、俺の前に立ち、深く、その頭を下げた。
「料理人ヒビキ殿。あんたは、ただ、腹を満たしただけではない。我らが、忘れかけていた、最も大切なもの……分かち合うことの喜びを、思い出させてくれた。あんたこそ、真に、『群れの掟』を理解する者だ」
俺たちは、ヴァロリアにおける、最初の地方訪問で、最も困難と思われた、誇り高き狼の民の心を、料理が持つ、最も根源的な力で、見事に、一つに繋いでみせたのだった。




