第四話:噂と、初めての来訪者
俺が村でパンを焼いてから、一週間が過ぎた。
村人たちはすっかりパンの虜になり、今ではスープとパンが村の食卓の定番となっていた。俺はパンの改良を続け、リゴの実の代わりに別の果物で酵母を起こしたり、雑穀に木の実を混ぜ込んだりと、バリエーションを増やしていった。
村は活気に満ちていた。食事の時間がただの栄養補給ではなく、楽しみと笑顔をもたらす時間へと変わったからだ。子供たちは我先にと焼き立てのパンをねだり、大人たちは熱々のスープをすすりながら談笑する。そんな光景が、俺にとって何よりの報酬だった。
「ヒビキの飯は、人を幸せにする力があるんだな」
ポポは、俺の肩の上でパンをかじりながら、満足げにそう言った。
そんなある日、村に一台の立派な馬車がやってきた。
土埃を上げて村の入り口に止まった馬車から降りてきたのは、銀の鎧に身を包んだ、いかにも屈強そうな騎士たち。そして、彼らに護衛されるようにして、絹のドレスをまとった一人の少女が現れた。
歳は17、8だろうか。燃えるような赤い髪をポニーテールにし、腰には細身の剣を吊るしている。気の強そうな、しかし気品のある顔立ち。彼女は明らかに、この貧しい村の人間ではなかった。
「この村から、奇妙な噂を聞きつけてな。旅の者に聞けば、この村には『神の料理人』がいるとか」
少女は、値踏みするような鋭い目で俺を見ると、そう言った。
「あんたが、その料理人か?」
突然の来訪者に、村人たちは恐れをなして遠巻きに見ている。俺は一歩前に出て、毅然とした態度で応えた。
「俺はヒビキ。しがない料理人ですよ。神だなんて、とんでもない」
「ふん。謙遜か、あるいはただのホラ吹きか。どちらか試させてもらうぞ」
少女――エリアーナと名乗った彼女は、尊大な態度で続けた。
「私は王都から来た。王宮に仕える魔術師団の副団長、エリアーナ・フォン・リヒトホーフェンだ。お前の料理が本物か、私のこの舌で確かめてやろう。もし、私の期待を裏切るような真似をすれば……分かっているな?」
その言葉には、有無を言わせぬ圧があった。どうやら、俺の料理の噂は、行商人などを通じて王都にまで届いていたらしい。そして、厄介な客を呼び寄せてしまったようだ。
「分かりました。最高の料理でおもてなししますよ、エリアーナ様」
俺は不敵な笑みを浮かべて、そう答えた。王宮の魔術師団副団長。面白い。前世では、世界中のVIPに料理を振る舞ってきた。それに比べれば、異世界の貴族など、恐るるに足らない。
俺がこの日のために用意したのは、この世界に来て初めて作る「肉料理」のフルコースだった。
まずは前菜として、薄切りにした獣肉を石板でさっと炙り、岩塩と森で採れる酸味の強い木の実のソースで味付けしたもの。いわば「獣肉のタリアータ」だ。
次に、じっくりと煮込んだ骨付き肉のスープ。これは村人たちにもお馴染みの味だが、数種類のハーブを加えて香りを複雑にし、より洗練させた。
そして、メインディッシュ。
俺は、数日間熟成させて旨味を凝縮させた獣肉の塊に、岩塩と砕いた木の実をまぶし、麻紐で縛る。その周りを、粘土でまんべんなく覆い、釜戸の熾火の中に投入した。
「な、何をするんだ!? 肉を泥で汚して!」
エリアーナが驚きの声を上げる。
「まあ、見ててください。これが、最高の肉料理になるんですから」
これは、いわゆる「塩釜焼き」の応用だ。粘土で覆うことで、肉の水分を逃さず、オーブンのように中までじっくりと火を通すことができる。
待つこと、およそ一時間。
粘土を取り除くと、中から現れたのは、こんがりと焼き色がつき、肉汁が滴る巨大な肉の塊だった。その芳醇な香りに、エリアーナはもちろん、護衛の騎士たちまでゴクリと喉を鳴らす。
俺はその塊を薄く切り分け、皿に盛り付けた。
「さあ、どうぞ。『獣肉の塩釜焼き』です」
エリアーナは、まだ半信半疑といった様子で、ナイフとフォークを手に取る。そして、一片の肉を、ゆっくりと口に運んだ。
その瞬間、彼女の大きく見開かれた翠色の瞳から、信じられない、といった光が放たれた。
「な……に、これ……っ!?」
外は香ばしく、中は驚くほど柔らかくジューシー。噛みしめるたびに、凝縮された肉の旨味が、口の中の粘膜を激しく殴りつけてくる。今まで食べてきた、ただ硬くて臭いだけの肉とは、全くの別物。
エリアーナは、貴族の令嬢であることも忘れ、夢中で肉を頬張った。
「う……美味しい……こんな美味しいもの、生まれて初めて食べた……」
やがて皿が空になる頃には、彼女の目には涙が浮かんでいた。
「ヒビキ……あんた、一体何者なの……?」
俺は、満足げに微笑みながら答えた。
「だから言ったでしょう。ただのしがない料理人ですよ」
この日を境に、俺と王宮魔術師団の副団長、エリアーナとの奇妙な関係が始まることになるのだった。