第三十二話:市場の発見と、未知なるスパイス
『鉄牙の町』の空気が、明らかに変わった。
俺が、彼らが「クズ肉」と見下していた部位で、町の英雄ガルムの度肝を抜いてから数日。獣人たちが俺たちに向ける視線から、あからさまな敵意は消え、代わりに、戸惑いと、無視できない好奇心が宿っていた。特に、町の料理人や主婦たちは、俺の調理場を遠巻きに眺め、その一挙手一投足に、熱心な視線を送るようになっていた。
変化は、領主ジャギにも訪れていた。彼は、表向きはまだ尊大な態度を崩さないが、毎日、何かしらの理由をつけては俺たちの宿舎に顔を出し、俺が作る「まかない」を、当然のような顔で食べていくようになったのだ。
「フン、人間の食い物は、妙に小手先を弄するが……まあ、悪くはない」
そう言いながら、皿を綺麗に空にするのが、彼の日課だった。
そんなある日、俺は、レオとリリアを連れて、町の散策に出かけた。目的は、ヴァロリアにしかない、未知の食材の発見だ。
町のはずれ。そこには、俺たちが想像していたような、活気のある市場はなかった。代わりに、獣人たちが、それぞれ持ち寄った獲物や採集物を、地面に広げて、物々交換を行っている、簡素な広場があった。
「師匠、見てください! あのお肉、見たこともないです!」
レオが、興奮した様子で指差す。そこには、トカゲのような、鳥のような、不思議な魔獣の肉が並んでいた。リリアも、岩肌に生えるという、奇妙な形をしたキノコや、色鮮やかな木の実を、食い入るように見つめている。
俺の目は、ある一点に釘付けになった。広場の隅で、老婆の獣人が、小さな袋に入った、黒い粒を売っていたのだ。それは、乾燥した木の実のようにも見えるが、微かに、今まで嗅いだことのないような、刺激的で、爽やかな香りがした。
俺は、老婆に近づき、それが何かと尋ねた。
「これは、『シビレの実』さね。噛めば舌が痺れるだけで、腹の足しにもなりゃしない。こんなもん、欲しがるのはあんたら人間くらいのもんだろうよ」
老婆は、面倒くさそうに答える。舌が痺れる、刺激的な香り。その瞬間に、俺の料理人としての魂が、激しく震えた。これは、使える。いや、これを使えば、俺の料理は、全く新しい次元へと進化する。
俺は、持っていた干し肉と交換で、その『シビレの実』を、ありったけ譲り受けた。
宿舎に戻った俺は、早速、その未知のスパイスの研究に取り掛かった。実を石臼で挽くと、辺りには、柑橘類と、そしてどこか花の蜜を思わせるような、甘く、しかし鮮烈な香りが立ち上る。指先に少しだけつけて舐めてみると、老婆の言う通り、舌の上に、心地よい痺れが、ピリピリと広がった。
これは、前世の記憶にある、山椒や花椒に、極めて近いスパイスだ。
「レオ、カイン、ドルガン! 全員集合だ!」
俺は、アカデミーの選抜チームを厨房に集めた。そして、宣言する。
「今夜、ジャギ領主を、俺たちの本当の料理で、完全にノックアウトする。ヴァロリアでの、俺たちの最初の代表作を作るぞ」
その夜。俺たちがジャギの前に出したのは、一見すると、何の変哲もない、鶏肉の唐揚げだった。それは、ジャギが、俺のまかないの中でも、特に気に入っている一品だ。
「フン、またこれか。まあ、悪くはないが……」
ジャギは、油断しきった顔で、唐揚げを一つ、口に放り込んだ。
次の瞬間。彼の、ハイエナの鋭い目が、信じられないものを見たかのように、カッと見開かれた。
サクッとした衣の食感、ジューシーな肉汁。ここまでは、いつもと同じだ。だが、その直後。舌の上に、経験したことのない、鮮烈な嵐が吹き荒れたのだ。
鼻腔を突き抜ける、爽やかで華やかな香り。そして、舌全体を支配する、快感にも似た、ピリピリとした痺れ。その刺激が、鶏肉の脂の甘みを、極限まで引き立て、一口、また一口と、食べる手が止まらなくなる。
「なっ……な、な、なんだ、この唐揚げはーーーっ!?」
ジャギは、生まれて初めて体験する、味覚の衝撃に、叫び声を上げた。それは、彼が今まで知っていた「美味い」という概念を、完全に破壊し、再構築するほどの、暴力的なまでの美味だった。
俺は、静かに種明かしをする。
「それは、あんたたちが、価値がないと見向きもしなかった、『シビレの実』の魔法ですよ」
俺は、この未知のスパイスを使って、『油淋鶏』のタレを、ヴァロリア風にアレンジしたのだ。
ジャギは、皿が空になるまで、夢中で唐揚げを貪った。そして、全てを食べ終えると、長く、深い、恍惚のため息をついた。
彼は、俺の前に進み出ると、これまでの尊大な態度を完全に捨て去り、一人の料理人を尊敬する、真摯な目で言った。
「料理人ヒビキ……いや、ヒビキ殿。俺は、間違っていた。あんたたちは、ただのひ弱な人間などではない。俺たちが気づきもしなかった、大地の宝を見つけ出し、それを、誰も見たことのない芸術へと変える、偉大な魔術師だ」
そして、彼は、一枚の羊皮紙を俺に差し出した。それは、ヴァロリア全土への、自由な通行を許可する、領主の印が押された通行証だった。
「これを持って、どこへでも行くがいい。そして、この国の者たちに、教えてやってくれ。食という世界の、本当の深さと、楽しさを」
未知のスパイスとの出会いは、俺たちに、ヴァロリアの民の心を開く、新しい扉を与えてくれた。俺たちの旅は、困難なだけではない。この大地には、まだ見ぬ食材と、驚きと、そして新しい料理の可能性が、無限に眠っているのだ。
俺たちの胸は、これから始まる、本格的なヴァロリアでの冒険への、期待に満ち溢れていた。




