第三十一話:最初の町と、肉の掟
渡し守ウルガの、古いが頑丈な船に揺られ、俺たち使節団は、ついに獣人王国ヴァロリアの大地に、その第一歩を記した。
対岸に降り立った瞬間、俺たちは、その空気の違いに気づいた。人間の国よりも、空は高く、風は強く、そして大地からは、むせ返るような生命の匂いが満ちていた。全てが、荒々しく、力強く、そして純粋だ。
ウルガに教えられた道を数時間進むと、俺たちはヴァロリアで最初の町、『鉄牙の町』にたどり着いた。町は、巨大な獣の骨で組まれた門が入り口となり、建物は、磨かれていない武骨な木材と、黒い岩でできていた。道行く獣人たちは、誰もが屈強な肉体を持ち、その目には、厳しい自然を生き抜く者の、誇りと警戒心が宿っている。
「す……すごい迫力だ……」
リリアが、俺の後ろに隠れるようにして呟く。王都とは、あまりに違う。ここでは、俺たち人間は、異物であり、弱者だ。近衛騎士たちの護衛があっても、突き刺さるような視線が、一行の緊張を煽る。
「ヒビキ殿、まずは領主の館へ。我々の身分を証明し、滞在の許可を得なければ」
エリアーナの言葉に従い、俺たちは町の中心にある、ひときわ大きな建物へと向かった。
町の領主は、ハイエナの獣人、ジャギと名乗った。彼は、痩身だが、その眼光は剃刀のように鋭い。俺たちが差し出した国王の親書と、ボロス将軍の招待状を一瞥すると、彼は、にやりと、狡猾な笑みを浮かべた。
「ほう、人間どもの料理人か。ボロス将軍を感心させるとは、大した芸当だ。だが、この町には、この町の流儀がある」
またか。俺は、内心でため息をついた。この国では、何をするにも、まず彼らの流儀で、力を示さなければならないらしい。
ジャギは、外の広場を指差した。広場の中央には、巨大な焚き火が燃え盛り、その周りでは、町の獣人たちが、何かの儀式を始めていた。それは、この町で最も尊敬される狩人が仕留めた、巨大な猪のような魔獣『岩喰い』を、解体し、分配する儀式だった。
「あれが、我らの『肉の掟』だ。最も優れた戦士が、最も名誉ある部位を食らう。弱者は、残ったクズを分け合う。それが、我らの世界の真理よ」
ジャギは、俺を見据えて言った。
「貴様らにも、食う権利はやろう。だが、その腕前とやらで、自ら最高の部位を勝ち取ってみせろ。もし、それができぬと言うのなら、貴様らは、この町では、残飯を漁るハイエナ以下の存在だと思え」
それは、あからさまな挑発であり、試験だった。この町で、対等な存在として認められるか、それとも、見下されるだけの弱者として扱われるか。その分水嶺が、今、目の前に示された。
儀式を執り行うのは、町の英雄である、狼の獣人、ガルム。彼は、巨大な岩喰いを、見事なナイフ捌きで解体していく。そして、最も価値があるとされる、心臓やロースといった部位を、次々と町の強者たちへと分け与えていった。
生徒たちが、ごくりと喉を鳴らす。誰もが、あの美味そうな肉にありつきたい。だが、強面の獣人たちを前に、誰も動けずにいた。
俺は、一歩前に出た。
「領主殿。その勝負、受けさせてもらおう」
俺は、ガルムが解体を終え、骨だけになった岩喰いの屠体へと近づいた。そして、誰もが「クズ肉」として見向きもしなかった、ある部位を指差した。
「俺は、あれをいただく」
俺が指差したのは、骨の周りにこびりついた、僅かな肉と、内臓を包んでいた、分厚い網脂だった。
その選択に、獣人たちは、一斉に嘲笑の声を上げた。
「なんだ、あの人間は。一番汚くて、まずい場所を選びやがった!」
「やはり、人間は肉の価値も分からんらしい!」
ジャギも、肩をすくめてみせる。
だが、俺は、そんな嘲笑を気にも留めず、譲り受けたクズ肉と網脂を、自らの調理場へと運んだ。そして、生徒たちの前で、調理を開始した。
まず、骨から丁寧にかき集めたクズ肉を、細かく叩き、ハーブとスパイスで下味をつける。次に、そのミンチ肉を、ソーセージ状に丸め、網脂で丁寧に、幾重にも巻きつけていく。
「師匠、これは……?」
レオの問いに、俺は答える。
「これは、『クレピネット』。俺の故郷の、伝統的な肉料理だ。網脂の旨味で、クズ肉を、最高の御馳走に変える魔法だよ」
俺は、クレピネットを鉄串に刺し、焚き火の遠火で、じっくりと、回転させながら焼き始めた。
やがて、網脂が溶け出し、中のミンチ肉に、その濃厚な旨味と香りを染み込ませていく。パチパチという音と共に、今まで誰も嗅いだことのないような、複雑で、官能的な香りが、広場に漂い始めた。
嘲笑していた獣人たちの声が、次第に止んでいく。彼らの鼻が、その未知なる美味の匂いを、確かに捉えたのだ。
焼き上がったクレピネットは、表面がカリカリで、中は肉汁で溢れんばかりに輝いていた。俺は、それを切り分け、まず、解体を執り行ったガルムの前に、一切れ差し出した。
ガルムは、訝しげな顔をしながらも、その一切れを、無造作に口に放り込む。
その瞬間。彼の、狼の鋭い目が、驚愕に見開かれた。
「ぐ……っ!? な、なんだ、この味は……っ!!」
クズ肉だったとは思えない、驚くほどジューシーで、豊かな味わい。網脂から溶け出した濃厚なコク。そして、ハーブとスパイスが織りなす、複雑で刺激的な香り。それは、彼が今まで味わってきた、どんな高級な部位の肉よりも、衝撃的で、そして、美味かった。
「馬鹿な……。これは、確かに、俺が捨てたはずのクズ肉だ……。それが、なぜ、これほどの味に……?」
ガルムは、言葉を失い、ただ震えていた。広場にいた他の獣人たちも、ジャギも、その光景を、信じられないといった表情で見つめている。
俺は、静かに言った。
「あんたたちが、価値がないと捨てたものの中にこそ、本当の宝が眠っていることもある。それを引き出すのが、俺たち料理人の仕事だ」
ヴァロリアで最初の町。俺は、彼らが最も軽蔑していた「クズ肉」で、彼らが最も誇りにする「肉の掟」を、見事に打ち破ってみせたのだ。
その日を境に、『鉄牙の町』の獣人たちが、俺たちを見る目は、確かに変わった。それは、まだ畏敬や友好ではない。だが、侮蔑や敵意でもない。未知なる文化への、戸惑いと、そして無視できない興味。
俺たちの、獣人王国における、本当の対話は、ここから始まろうとしていた。




