第三十話:国境の川と、獣人の掟
荒野の旅は、一週間にも及んだ。
俺たち使節団は、辺境の厳しい自然に揉まれながらも、確実に前進していた。生徒たちは、日に日にたくましくなっていった。カインは、地図読みと水源確保のエキスパートになり、リリアは、わずかな植生から、食べられる野草や薬草を見つけ出す才能を開花させた。ドルガンは、その頑健な肉体と明るさで、一行のムードメーカーとなっていた。レオは、俺の補佐役として、冷静に状況を判断し、的確な指示を後輩たちに出せるまでに成長していた。
そして、ついに俺たちは、その場所にたどり着った。
「あれが……『嘆きの川』か」
エリアーナが、険しい表情で呟く。目の前には、轟音と共に、白く濁った激流が渦巻いていた。川幅は広く、流れは驚くほど速い。ここが、人間の国と、獣人王国ヴァロリアを隔てる、自然の国境だった。
橋はない。対岸へ渡るには、川岸に唯一存在する、渡し守に頼むしかない。
俺たちが川岸に近づくと、小屋の中から、一人の巨大な獣人が姿を現した。熊のような体躯に、鋭い牙と爪。その全身からは、荒々しい警戒心と、人間に対するあからさまな敵意が放たれている。彼が、この国境の渡し守、ウルガだ。
「人間が、何の用だ。ここは、お前たちのような、ひ弱な者が来る場所ではない。失せろ」
ウルガは、威嚇するように、低い声で唸った。エリアーナが、外交官として一歩前に出る。
「我らは、国王陛下の勅命を受けた、公式の使節団です。ヴァロリアの王、ヴォルガルド陛下への招待を受け、参りました」
彼女が、国王の親書を見せるが、ウルガは鼻で笑った。
「フン、王の招待だと? 知ったことか。この川には、この川の掟がある。渡りたければ、俺を力で認めさせてみろ。それが、ヴァロリアの流儀だ」
近衛騎士たちが、一斉に剣の柄に手をかける。だが、エリアーナは、それを手で制した。ここで武力衝突を起こせば、それこそが彼の思う壺だ。外交問題に発展し、俺たちの旅は、始まる前に終わってしまう。
「……力で、認めさせる、か」
俺は、一歩前に出た。そして、ウルガの、射殺さんばかりの視線を、まっすぐに見つめ返した。
「あんたの言う通りだ。俺たちは、ひ弱な人間かもしれない。だが、俺たちには、俺たちの戦い方がある」
俺は、ウルガに向かって、はっきりと宣言した。
「料理で、勝負しよう」
その言葉に、ウルガだけでなく、俺の後ろにいた生徒たちも、騎士たちも、目を丸くした。
「なんだと……?」
「あんたが、俺の料理を『美味い』と認めれば、俺たちの勝ちだ。そうすれば、文句なく、俺たちを対岸へ渡す。どうだ? 受けて立つか?」
ウルガは、最初、俺が何を言っているのか理解できない、といった顔をしていた。だが、やがて、その口元に、残忍な笑みを浮かべた。
「面白い……。いいだろう、その勝負、受けてやる! だが、もし俺が、貴様の料理を『まずい』と一口でも言えば、お前たちは、その首をここに置いていくことになる。それでも、やるか?」
それは、命を懸けた料理対決。俺は、少しも臆することなく、頷いた。
「望むところだ」
勝負の舞台は、川岸の焚き火。食材は、お互いが今、持っているものだけ。ウルガが取り出したのは、川で獲ったという、巨大な怪魚の切り身だった。対する俺は、旅の食料の中から、数種類の豆と、干し肉、そしてスパイスを選んだ。
ウルガの調理は、豪快そのものだった。巨大な魚の切り身を、串に刺し、焚き火で無造作に炙るだけ。味付けは、岩塩のみ。これぞ、獣人たちが愛する、素材の味をそのまま味わう、力強い料理だ。
一方、俺は、持参した鉄鍋に、豆と干し肉、そして水を入れ、静かに煮込み始めた。カインやレオが、不安げな表情で見守っている。こんな地味な煮込み料理で、あの強烈な魚の塩焼きに対抗できるのか、と。
やがて、二つの料理が、同時に完成した。ウルガの魚は、表面が黒く焦げ、野性的な匂いを放っている。対して、俺の鍋の中には、茶色く、どろりとした、見た目には決して美味しそうとは言えない煮込み料理があるだけだ。
「さあ、食え。そして、ひれ伏すがいい」
ウルガは、自信満々に、魚の塩焼きを俺の前に突き出した。
俺は、それを一口食べると、静かに言った。
「力強い味だ。だが、大雑把すぎる。魚の持つ、繊細な甘みを、あんたの炎が殺してしまっている」
「なんだと!?」
次に、俺は、自分の煮込み料理を、ウルガの前に差し出した。
「あんたも、食ってみろ。これが、俺の国の『力』だ」
ウルガは、侮蔑の表情を浮かべながら、スプーンで煮込みをすくい、乱暴に口へと運んだ。
次の瞬間。
彼の、熊のような巨体が、雷に打たれたかのように、硬直した。
口の中に広がったのは、予想していたような、ただの豆の味ではなかった。何種類もの豆が、それぞれ異なる食感と風味を生み出し、干し肉から溶け出した濃厚な旨味と、スパイスの複雑な香りが、重層的に絡み合っている。それは、ただの煮込みではない。大地の力が、一つの器の中で、完璧に調和した、濃厚で、力強い、魂の料理だった。
それは、『チリコンカン』。俺の故郷が誇る、煮込み料理の王様だ。
「な……なんなんだ、これは……っ!?」
ウルガは、言葉を失い、我を忘れたように、鍋の中の煮込みをかき込んだ。額には、大粒の汗が浮かんでいる。
鍋が空になる頃、彼は、スプーンを置くと、天を仰いで、長く、深いため息をついた。そして、悔しそうに、しかし、どこか晴れやかな顔で、地面に拳を叩きつけた。
「……参った。俺の、負けだ」
それは、国境の川に響き渡る、潔い敗北宣言だった。彼は、俺の前に立つと、深く頭を下げた。
「約束だ。お前たちを、対岸へ渡そう。料理人ヒビキ……いや、ヒビキ殿。あんたは、本物の『戦士』だ」
こうして俺たちは、力ではなく、料理の力で、獣人王国の、最初の関門を突破した。それは、これから始まるヴァロリアでの旅が、決して楽なものではないこと、そして、料理こそが、彼らと対話するための、唯一の武器であることを、俺たちに教えてくれた、荒野での最後の試練だった。




