第十八話:初めての厨房と、父の涙
シエル王子が、初めて「ありがとう」という言葉を口にしてから、離宮の空気は一変した。
固く閉ざされていた窓は開け放たれ、いつも新鮮な風が吹き抜けるようになった。バルコニーの小さな庭は、王子自らが毎日世話をするようになり、蒔いたハーブの種からは、可愛らしい双葉が顔を出し始めていた。それは、王子の心の成長と、見事に歩みを合わせていた。
「ヒビキ。これは、どうやって食べるんだ?」
王子は、新芽をつけたハーブを指さしながら、俺に尋ねるようになった。彼の興味は、ただ食べることから、食材そのものへと、そしてその先にある「料理」という行為へと、明確に向かい始めていた。
そんなある日、俺がいつものように王子のために昼食の準備をしていると、彼はベッドの上からではなく、俺のすぐそばで、その手元をじっと見つめていた。
「……僕も、やってみたい」
それは、今までで一番はっきりとした、そして力強い意志のこもった言葉だった。彼は、自分が世話をしたハーブを、自らの手で料理してみたい、と言ったのだ。
俺は、一瞬驚いたが、すぐに満面の笑みで頷いた。
「ああ、もちろんだ。一緒に作ろう。今日のシェフは、シエル王子、あなただ」
俺は、レオとポポの助けを借りて、離宮の厨房ではなく、『食堂ヒビキ』へと王子を案内した。もちろん、事前に国王の許可は得てある。王子の「初めての厨房体験」には、活気と、人々の笑顔に満ちた、俺の店こそがふさわしいと思ったからだ。
もちろん、店は貸し切りだ。それでも、王子が厨房に立つという噂を聞きつけたエリアーナやギムレット、そして国王陛下までもが、お忍びで店の様子を覗きに来ていた。
「ようこそ、俺の城へ」
俺は、子供用の小さなエプロンを、シエル王子につけてやった。レオは、少し先輩らしく、誇らしげな顔で王子の隣に立つ。
その日、俺たちが作ったのは、非常にシンプルな一品。『ハーブとチーズのスクランブルエッグ』だ。王子が育てたハーブを、彼の小さな手で摘み取り、刻んでもらう。そして、鶏の卵を割り、チーズと混ぜ合わせ、塩で味を調える。
「火は、生き物だ。優しく、そして敬意を持って接するんだ」
俺は、王子の手をとり、一緒にフライパンの柄を握った。温かい火の上で、卵がゆっくりと固まっていく。ハーブの爽やかな香りが、厨房いっぱいに広がった。
出来上がったのは、少し形は不格好だが、紛れもなく、王子が初めて自らの手で作った料理だった。俺はそれを、焼き立てのパンと一緒に、一枚の皿に盛り付けた。
「さあ、どうぞ。今日のまかないは、シェフの特別製だ」
レオとポポ、そして俺。四人でテーブルを囲み、王子が作ったばかりのスクランブルエッグを口に運ぶ。
「……おいしい」
王子は、自分が作った料理の味に、驚いたように目を見開いた。それは、誰かに与えられたものではない。自らの手で、食材に触れ、火を使い、生み出した味。その感動は、何物にも代えがたいものだった。
その光景を、店の片隅で、息を殺して見守っていた一人の男がいた。国王、アルトリウスだ。
彼は、生まれて初めて、息子が自らの意志で食事を作り、それを「美味しい」と言って微笑む姿を見た。どんな名医も、どんな高価な薬も、どんな豪華な食事も与えることのできなかった、幸福な光景。それが、今、目の前にある。
国王の威厳に満ちたその目から、一筋、また一筋と、温かい涙が流れ落ちていた。それは、王としてではなく、ただ息子の健やかな成長を願う、一人の父親としての涙だった。
食事を終えた国王は、俺の前に進み出ると、その両肩を、力強く掴んだ。
「ヒビキよ……礼を言う。お前は、この国の王子を救っただけではない。一人の父親の、魂を救ってくれた」
国王は、王都で最も人通りの多い大通りに面した、一等地の権利書を俺に差し出した。
「お前の『料理学校』の構想、聞いている。もはや、小さな食堂では手狭であろう。ここを使え。国が、全面的にお前を支援する。この国の未来を担う料理人たちを、お前の手で育ててくれ」
それは、俺の夢が、この国の未来そのものと重なった瞬間だった。
心を閉ざした王子は、料理の楽しさを知り、成長への大きな一歩を踏み出した。そして俺は、彼の父親である国王から、この国の食の未来を、正式に託されたのだ。
『食堂ヒビキ』の厨房から始まった革命は、今、国全体を巻き込む、大きなうねりへと変わろうとしていた。