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第十七話:初めての「ありがとう」

 俺たちがシエル王子の離宮に通うようになって、季節は移ろい始めていた。


 日々の献立は、ささやかだが、驚きに満ちたものになるよう心掛けた。一口サイズの、具材を隠したおにぎり。宝石のように輝く、果汁を固めたゼリー。鶏の出汁が効いた、優しい味の麺料理。


 それらを、俺とレオ、そしてポポの三人で、いつも楽しそうに分け合って食べる。決して「お食べなさい」とは言わない。ただ、食事の楽しさを、その背中で見せるだけだ。


 王子は、変わった。


 相変わらず口数は少ないが、警戒心に満ちた瞳は和らぎ、今では俺が調理をする姿を、食い入るように見つめる時もある。何より、その頬には、ほんのりと血の気が戻り始めていた。


 そんなある朝、俺たちが部屋を訪れると、王子は窓辺に立ち、ひどく思い詰めた顔で、例の植木鉢を見つめていた。


「……大きく、ならない」


 それは、彼の方から発せられた、初めての言葉だった。か細く、今にも消え入りそうな声だったが、確かに俺に向けられていた。


 俺は、植木鉢を覗き込む。王子の言う通りだった。毎日水をやっているが、閉め切った部屋の中では、ただ弱々しく生きながらえているだけだ。生命に必要な、もっと根源的なものが足りていない。


「魔法には、太陽の光と、新鮮な風も必要なんだ」


 俺は、優しく言った。


「この子を、外に出してやろう」

「……外」


 王子の肩が、小さく震える。彼は、もう何か月も、もしかしたら何年も、この部屋から出ていないのだろう。彼にとって、外の世界は、得体の知れない恐怖そのものなのだ。


 俺は、彼の心をこじ開けるのではなく、そっと手を差し伸べるように提案した。


「この窓の外にあるバルコニーに、この子のための、小さなお庭を作ってあげよう。一緒に」


 宮廷の侍従に頼み、バルコニーは完全に私的な空間として整えられた。俺とレオ、ポポの三人で、大きなプランターと新しい土、そして料理にも使える丈夫なハーブの種を運び込む。


 俺は、バルコニーへ続く扉を開け放ち、何も言わずに土いじりを始めた。


 シエル王子は、部屋の中から、長い時間、その光景を見ていた。やがて、意を決したように、自らの大切な植木鉢を胸に抱きしめると、震える足で、一歩、また一歩と、光の中へ足を踏み出した。


 眩しそうに目を細める王子。それは、彼にとって、あまりにも大きな一歩だった。


 俺は王子に、彼の植物を、新しいプランターのふかふかした土へと、優しく植え替える方法を教えた。


「根っこも、人間と同じだ。広い場所じゃないと、大きくはなれない」


 そして、新しいハーブの種を、一緒に蒔いた。王子は、生まれて初めて、その白い指で、ひんやりとした土の感触を確かめていた。


 作業を終えた後、俺は「ピクニックにしよう」と言って、魔法瓶に入れてきた温かいスープと、手作りのパンで作った簡素なサンドイッチを広げた。


「これは『土のスープ』だ。美味しい土をたくさん食べた野菜は、強くなる」


 俺の冗談に、レオとポポが笑う。


 新鮮な空気と、土の匂いに包まれながら、バルコニーで食べる、温かい食事。その日、シエル王子は、今までで一番多くの量を、自らの意志で口に運んだ。そして、初めて、料理について質問をした。


「……これ、は……なんという、草だ?」


 彼が指差したのは、サンドイッチに挟んだ、爽やかな香りのハーブだった。


 その日の夕暮れ。


 王子は、自分たちが作ったばかりの小さな庭を、愛おしそうに眺めていた。優しい風が、彼の銀色の髪をそっと撫でる。


 やがて、彼は、俺の方を振り向いた。そして、その唇から、はっきりと、言葉が紡がれた。


「……ありがとう、ヒビキ」


 それは、俺が初めて聞く、彼の心からの感謝の言葉だった。


 もう、俺は単なる料理人ではない。王子にとって、心を許せる、たった一人の友人になったのだ。その事実が、何よりも温かく、俺の胸に広がっていった。

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