第十三話:敬意と、最初の一皿
レオが厨房に立って、最初の一週間が過ぎた。
しかし、俺は彼に、まだ包丁すら握らせていなかった。レオの日課は、日の出と共に始まり、厨房の床を磨き上げ、山のように積まれた野菜の泥を落とし、調理器具の一つ一つを丁寧に洗浄して所定の場所に戻す。それが全てだった。
「師匠……いつになったら、料理を教えてもらえるんですか……?」
ある日、レオが不安げに尋ねてきた。無理もない。彼は、妹たちのために一刻も早く料理を覚えたくて、ここにいるのだ。
俺は、ピカピカに磨かれた銅鍋を指差した。
「レオ。この鍋がなければ、お前が作りたかったスープは作れない。この釜戸がなければ、火も起こせない。そして、畑で野菜を作る農夫がいなければ、そもそも食材すらない。料理ってのはな、一人じゃできないんだ。俺たちは、たくさんのものに支えられて、初めてここに立つことができる」
俺は、レオの目をまっすぐ見て続けた。
「厨房を綺麗に保つこと。道具を大切に扱うこと。食材の一つ一つに感謝すること。それが、料理人としての第一歩だ。その『敬意』を忘れちまったら、どんなに腕を磨いたって、人の心を動かす料理は作れねえ」
レオは、俺の言葉を黙って聞いていた。そして、深く頷くと、再び無心で芋の泥を落とす作業に戻った。その目には、もう迷いはなかった。
さらに数日が過ぎた、ある日の午後。俺は、レオを厨房の中央に呼んだ。
「よし、今日からお前に、最初の料理を教える」
「! はいっ!」
レオの顔が、ぱあっと輝く。俺は、彼が毎日丁寧に洗い続けた野菜の切れ端――人参のヘタや、玉ねぎの皮、セロリの葉などを集めたカゴを指差した。
「最高のスープを作るぞ。お前が、妹たちのために作りたかったスープだ」
俺はまず、出汁の取り方を教えた。今まで捨てていた野菜のクズを、水からゆっくりと煮出す。アクを丁寧に取り除き、野菜が持つ優しい「旨味」を、時間をかけて引き出していく。
「これが、お前が今まで知らなかった、スープの魂になる」
次に、野菜の切り方。それぞれの野菜の繊維の走り方を見極め、最も甘みと食感が引き出せる切り方を、手取り足取り教える。そして、味付けの要である塩を入れる、最高のタイミング。それは、全ての野菜に火が通り、旨味がスープに溶け出した、その瞬間だ。
全ての工程を教え終えた後、俺はレオに言った。
「さあ、やってみろ。お前が、お前の手で、妹たちのためのスープを作るんだ」
レオは、緊張で震える手で包丁を握った。だが、その動きは驚くほどに丁寧で、食材に対する敬意に満ちていた。一週間、来る日も来る日も続けた地道な作業が、彼の体に、料理人としての魂を刻み込んでいたのだ。
やがて、小さな鍋から、優しい湯気と共に、豊かな香りが立ち上り始めた。レオが作った、生まれて初めての、本物のスープだった。
俺は味見用のスプーンを差し出し、無言で促す。レオは、自分が作ったスープを、おそるおそる一口飲んだ。
次の瞬間、彼の大きな瞳から、ぽろぽろと、堰を切ったように涙が溢れ出した。それは、自分の境遇を嘆く悲しみの涙ではなかった。
「おいしい……」
野菜の優しい甘み、体の芯まで染み渡るような温かい旨味。彼が今まで口にしてきた、どんなものとも違う、幸福な味がした。
「おいしい……です、師匠……っ!」
「ああ、美味いスープだ。お前の心がこもってる」
俺は、店の大きな寸胴鍋に、出来上がったスープをたっぷりと詰めると、焼き立てのパンと一緒に、レオに持たせた。
「さあ、持って帰れ。妹たちが待ってるぞ」
「はいっ! ありがとうございます!」
レオは、夕焼けに染まる王都の道を、一目散に駆けていった。その小さな背中は、ただ空腹を満たすためではなく、大切な誰かに「美味しい」を届けるという、新しい喜びに満ち溢れていた。
俺の最初の弟子は、料理人として、そして一人の人間として、確かな一歩を踏み出した。その姿に、俺は自分のことのように胸が熱くなるのを感じていた。