第十一話:敗者の来訪と、次なる一歩
食戟の翌日。『食堂ヒビキ』は休業の札を下げていた。
昨日の熱狂が嘘のように静まり返った店内で、俺は一人、黙々と厨房を磨き上げていた。激闘の疲労は確かにある。だがそれ以上に、心の底から満たされるような、穏やかな達成感が全身を包んでいた。棚に置かれた小麦粉の袋の上では、ポポが幸せそうな寝息を立てている。
この静寂が、今の俺には何より心地よかった。
カラン、と静かにドアベルが鳴った。振り返ると、そこに立っていたのは、昨日までの傲慢さが嘘のように抜け落ちた、一人の男だった。
「アントワーヌ……さん」
私服姿の「古典の皇帝」は、どこかやつれた様子で、所在なげに厨房の入り口に佇んでいた。彼は俺の前に歩み寄ると、長く、重い沈黙の後、絞り出すように言った。
「教えてくれ。あの料理は……一体、何だったのだ?」
その声に、昨日のような侮蔑の色はなかった。ただ、自らの料理人生の全てを懸けても理解できなかったものに対する、純粋な問いかけだけがあった。
「私の生涯を捧げた技術では、到底たどり着けない領域だった。あれは、技ではない。何か……全く別の理で成り立っていた」
俺は、カウンターを拭いていた布巾を置くと、静かに口を開いた。
「あれは、『引き算』の料理です」
「ひき……ざん?」
「あなたのスフレは、卵にバターや砂糖を加え、技術で飾り立てる『足し算』の料理。それも、極められた素晴らしい一品でした。ですが俺は、卵が持つ本来の力を最大限に引き出すため、余計なものを全て削ぎ落としたかった」
俺は、出汁のことを説明した。昆布やキノコといった、それ単体では主役にならないものたちの、隠れた味。それらが、主役であるグリフォンの卵を下から支え、その魂を輝かせるのだと。
「甘味、塩味、酸味、苦味。そして、第五の味……旨味。俺はただ、卵が持つその『旨味』という名の魂を、器の中にそっと掬い取っただけですよ」
アントワーヌは、俺の言葉を一つ一つ噛みしめるように聞いていた。彼の料理哲学が、根底から覆されている瞬間だった。やがて彼は、何も言わずに深く一礼すると、ふらふらと店を後にしていく。その背中は、敗者のものではなく、新しい道を探し始めた求道者のように見えた。
アントワーヌが帰って間もなく、今度は意気揚々としたエリアーナが店に飛び込んできた。
「ヒビキ! 見た!? 店の前のあの行列!」
彼女が指差す先には、休業中にもかかわらず、次の開店を待つ人々の長蛇の列ができていた。
エリアーナがもたらした情報は、俺の想像を遥かに超えていた。食料ギルドは、ボルマンが罷免され、内部は混乱の極みにあること。王都中の料理人が、見よう見まねで『茶碗蒸し』や『唐揚げ』を作り、珍妙な料理が大量生産されていること。
そして――
「国王陛下も、あなたの料理に『大層な興味』をお持ちだそうよ。近いうちに、お呼び出しがあるかもしれないわね」
とんでもないことになってきた。
「さて」とエリアーナはにやりと笑う。「勝利の褒美、というわけではないけれど、あなたに次のステージを用意してあげましょう」
「次の、ステージ?」
「そうよ。あなたは食戟に勝った。でも、お腹を空かせた民は、王都にまだまだ大勢いる。あなた一人では、全ての人を幸せにはできないわ」
彼女の言う通りだった。俺の店は小さい。一日に作れる量には限りがある。
「だから、ヒビキ。あなたはこの国に、本当の『料理』を教えるのよ」
「教える……?」
「ええ。弟子を取りなさい。あなたの技術と、その料理哲学を、次の世代に伝えるの。ギルドが支配してきた旧い常識を塗り替える、新しい料理人たちの学校を作るのよ。それこそが、本当の食の革命でしょう?」
俺は、窓の外に目をやった。行列に並ぶ人々の顔は、皆、一様に期待に満ちている。彼らは、ただ腹を満たしたいのではない。俺の料理がもたらす、あの温かな幸福を求めているのだ。
食戟の勝利は、ゴールではなかった。本当のスタートラインだったのだ。
俺は、決意を新たに厨房へと向き直った。
「ヒビキ、お腹すいたー。今日の晩ごはんは何だー?」
小麦粉の袋の上で、ポポが目を覚まして伸びをする。
俺は、愛しい相棒を見て微笑んだ。
「そうだな。今夜は、未来の生徒たちのための、新しい献立でも考えようか」
俺の異世界レストランの厨房に、再び温かな灯がともった。その灯は、やがてこの国全体の食卓を、明るく照らし出すことになるだろう。




