第一話:プロローグと味気ない食事
意識が浮上する。
柔らかな土の匂いと、頬を撫でるそよ風。最後に感じたのは、焦げたアスファルトの匂いと、けたたましいブレーキ音だったはずだ。
「……ここは」
ゆっくりと目を開けると、視界いっぱいに広がるのは、見たこともない鬱蒼とした森だった。天を突くような巨木、地面を覆う色鮮やかな苔。まるでファンタジー映画のセットに迷い込んだかのようだ。
俺の名前は、響。二十八歳。世界的な料理コンクールへ向かう途中、信号無視のトラックにはねられ、呆気なくその人生を終えたはずだった。
「夢、か……?」
だが、腕をつねると確かな痛みがある。服はボロボロだが、不思議と体はどこも痛くない。状況が全く飲み込めず混乱していると、茂みからガサガサと音がした。
現れたのは、手のひらサイズの小さな……妖精? 背中に生えた蝶のような羽をパタパタとさせながら、俺の顔を覗き込んでくる。
「お前、誰だ? 初めて見る顔だな」
妖精は、鈴を転がすような声でそう言った。
「喋った……」
「喋るに決まってるだろ。それより、お前こそ何者だ? こんな森の奥で倒れてるなんて」
妖精はポポと名乗った。彼女(?)に言われるがままに森を抜けると、そこには石造りの簡素な家々が立ち並ぶ、小さな村が広がっていた。
「腹が減っただろう。村長の家で食事をご馳走になるといい」
ポポに案内され、村長の家を訪ねた。事情を話すと、村長は気の毒そうな顔をしながらも、快く食事を分けてくれた。
「さあ、遠慮なく食べてくれ。エーテルを回復させないと」
差し出されたのは、木製の器に入った、灰色のゼリー状の物体だった。微かに薬草のような匂いがする。これが、この世界の食事らしい。
「いただきます……」
他に選択肢もなく、恐る恐るそれを口に運ぶ。
……味が、ない。
いや、正確には、薬草をすり潰したような、不快な青臭さだけが口の中に広がる。食感はブヨブヨとしていて、喉を通る感覚が気持ち悪い。
「どうだ、美味いだろう?」
村長は、満足げに微笑んでいる。俺は言葉を失った。これが、美味い?
冗談だろう。
周りを見渡せば、村人たちは皆、同じものを無表情で口に運んでいる。食事に喜びも、楽しみも感じていない。ただ、生きるために必要な「エーテル」とかいうエネルギーを補給するだけの、作業。
俺は、前世で料理に全てを捧げてきた。食材の声を聞き、最高の調理法を探し、一皿に情熱を注いできた。客が「美味しい」と微笑んでくれる、その瞬間のために。
この世界は、どうだ。
食事はただの栄養補給。食文化は存在せず、人々は味気ないゼリーを啜るだけ。
ふざけるな。ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!
食は、もっと楽しくて、幸せなものであるはずだ。
「村長」
俺は、決意を固めて顔を上げた。
「俺に、キッチンを貸してください。本物の『料理』を、ご馳走しますよ」
その言葉に、村長も、隣でゼリーを頬張っていたポポも、きょとんとした顔で俺を見つめていた。
これが、異世界エーテルディアにおける、食の革命の始まりだった。