7言め『魚心あれば水心』
私・一文安美は、月曜のあの一件からずっと、
週末の言業先輩とのお出かけのことばかり考えていた。
確かに最初は期待と興奮で胸が高鳴っていた。
でも時間が経つにつれて不安の方が大きくなってきて…。
「はぁ………。」
「もしも〜し。安美っち、聞こえてる?」
「……は! ごめん、何か言った? 求ちゃん。」
「昼休みになったから一緒にご飯食べよって言ったの。」
「ああ、うん、ありがとう。今行くね!」
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
「安美っちは弁当派なんだねー」
聞耳求はアンパンを丸かじりしながら、
私のごくごく質素なお弁当について言及する。
「あー…、うん。まあお弁当の方が安上がりだからねー。」
「……もしかしてだけど、手作り?」
「え?うん、そうだけど。」
「うっそォ!? すっごぉい!! 自分で作れるんだ!!
てっきり親とかに作ってもらってるのかと思ってた。」
「私は一応 一人暮らしだからねー。
自分のことは自分でやらなきゃいけないし。」
「へー、何だか、ちゃんとしてるねー!
自立してる人って感じ? 憧れちゃうな〜。」
「…そんな、全然すごいことじゃないよ。
このお弁当だって冷凍食品ばっかだし…。
…それに 私はそんなにしっかりしてないし。
いつも誰かに頼ってばっかりだし、迷惑だって――」
そこまで言いかけたところで、
私のバッグがひとりでに大きく揺れる。
「ん? 今 何か音にしなかった?」
「――ううん。気の所為だよ。」
「? たしかに聞こえたんだけどな〜…」
そうだった。これからは自分を肯定するんだもん。
危うくまた自分を否定するところだったよ。
教えてくれてありがとう、ダミー。
「――そういえば、さっきは何を考えてたのさ。」
「ああ、えっとね――」
安美は事のあらましを聞耳求に打ち明ける。
「言業先輩にデートに誘われたぁ!?!?」
「シー!シーッ!! 声が大きいよ求ちゃん!!!」
「おっとこりゃ失敬。でも良かったじゃん。
二人の仲をぎゅーんと縮める絶好のチャンスだよ。」
「それは まぁ、そうなんだけど…。
私、こういうお出かけは初めてで、
どうしたらいいのか 分からなくて……。」
「なるほど。安美っちは萎縮しちゃってるんだね。
まあ相手が相手だから気持ちは分からなくもないけど。」
「……どうしたらいいと思う?」
「そうだねー。うーーん…。
でも今回のデートは安美っちのためのものでしょ?
言業先輩は安美っちを楽しませたいんじゃないの?
今からそんなに重苦しく構えてたら、
楽しめるもんも楽しめなくなっちゃうって。
そんなに難しく考えなくてもいいんじゃない?」
「で、でも 身だしなみとか…」
「あー、まあそりゃ失礼にならないよう、
最低限の心遣いは必要にはなるかもねー。
でもまあ、あくまで最低限でいいのさ。
デートプランも先輩が練ってるって話なんだし、
今回は先輩の意を汲んで、思いっきり楽しんじゃいな!!」
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
――そして、デート前日の夜。
「うーん………」
「まァーだ迷ってんのかよォ!? もういいだろォ!!
どっち着て行ったってたいして変わんねェって!!」
かれこれ数時間、明日の服選びに苦戦する私に、
ダミーは呆れたと言わんばかりに言う。
「いやまぁそうなんだけどさぁ……。」
「なんだァ。何がそんなに引っかかってんだ?」
「求ちゃんは楽しめばいいって言ってくれた。
それはきっとそうなんだと思う。でもね、
隣を並んで歩く以上、私は先輩に恥はかかせたくない。
今は対等に見られなくてもいいから、せめて、
唐揚げに添えられたレモンくらいにはなりたい。」
「要は『不快にならない程度の存在』ってことか?
まったく、俺のご主人様は心配性だなァ。
いいぜェ? とことん付き合ってやろうじゃんよォ。
だって俺は、ご主人様のために作られたんだからな。」
「……ありがとう、ダミー。」
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
――そして、デート当日が訪れた。
時刻は4月19日午前9時15分。
バスに揺られながら、私は虚空を見つめていた。
トートバッグから顔を出したダミーが私に問いかける。
「おいおい……。今からそんなんで大丈夫かァ?」
「ああ、うん。心配してくれてありがとう。
………ちょっと緊張しすぎて無理……吐きそう。」
「おいおいおいおい、大ピンチだなご主人様ァ!?
今日は楽しむんだろ? ほらリラックス、リラックス。」
「でもやっぱり不安だよぉ……。」
「大丈夫だって、なんとかなるって!!
ほら 今日は一段とかわいく仕上がったじゃねェか。
よく似合ってるぜワンピース。自信持てよご主人様。」
「自信なんて、持てるわけがないよ……。
今まで母親が買ってきた服しか着てなかったんだから。
自分が選んだ服がダサかったらどうしようって。
ごめんね、ダミー。頼りない主人でごめんね……。」
ご主人様が完全に病んじまった。
これじゃァ、変に叱っても逆効果だな。
ここはもう紡久の姐御の手腕に賭けるしかねェ。
俺は下手に刺激しないようバッグに戻ろう。
『次は〜 終点 言葉駅前〜。
お忘れ物のないようお気をつけください。』
「あ、もう着くみたい。」
「気張れよ、ご主人様!」
「あ、ダミー! …バッグに戻っちゃった。」
バスを降りればそこは言葉駅。私の最寄り駅だ。
電車通学の子たちは大半がここから通学してくるらしい。
周辺には多種多様な飲食店が配置されていて、
この駅から5分ほど歩くとショッピングモールがある。
『ショッピングモール・コトノハ』。
食事から娯楽まで何でもござれな大型複合施設。
今回言業先輩が選んだデート場所だ。
先輩を待たせるのは大変忍びないので、
待ち合わせ時間よりも1時間早く来たつもりだったのだが、
そこには何故か、よく見慣れた顔があった。
「こ、言業先輩!?」
「安美!? いくらなんでも早すぎないかい!?」
「それはこっちの台詞ですよ!!
なんで1時間前にスタンバイしてるんですか!!」
「それは、君を1人待たせるのは忍びなかったからね。」
「……私も、先輩と同じ考えです。」
「なんじゃそりゃ。」
「「フフ……ハハハ!」」
絶妙な空気に耐えきれず、2人して思わず笑ってしまった。
「あー……はぁー……おかしい!フフ!」
「まったく君は……私の好意をなんだと……」
「えへへ…すみません!」
私は言業先輩の姿をじっくり見る。
この人は やはり私服1つとっても完璧だ。
ロングスカートが特によく似合っていて、
改めて言業先輩のスタイルの良さを実感させられた。
「服、とっても綺麗ですね。似合ってます。」
「そうかな?そういってもらえると嬉しいよ。
なんせ今日は安美とのお出かけだからね。
思わず年甲斐もなくはしゃいでしまったよ。」
「…言業先輩って結構可愛いところありますよね。」
「なっ!? と、年上をあまりからかうんじゃない!!」
「褒めてるのにぃ…。」
「うぅ……嬉しい……けど、気恥ずかしいんだ!
……君こそ、似合っているよ。とても可愛らしい。」
「!? お、お褒めにあずかり光栄です…」
「「・・・・・・。」」
お互いに気まずい空気が流れる。
そして私たちは沈黙したまま歩きだした。
「…あの、今日はお誘いいただきありがとうございます。」
「そんなに畏まらなくていいよ。
これは私が君に償うために設けた場なんだ。
安美のためにいろいろと考えてきたから、
今日はぜひとも心おきなく楽しんでおくれ。」
「ありがとうございます、言業先輩!」
「……うーん。前から思っていたのだが、
やはり名字呼びというのは堅苦しく感じるね。
試しに私を『紡久』と呼んでみてくれないかい?」
「え!? えっと………。紡久―――先輩…。」
「アハハ! まだ呼び捨ては難しいか!」
「ちょっとー! 笑わないでくださいよ!」
「ハハハハ! いやぁー、ごめんごめん。
はにかむ君の姿が可愛くて、ついつい……。」
「なっ……!?」
紡久が安美の手をそっと取る。
「さあ、楽しいお出かけの始まりだ。
私がリードする。ほら、一緒に行こう、安美!」
「え!?? は、はい……!」
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始めに来たのは服屋『オタカイノ』だ。
紡久先輩は普段この店で服を購入しているらしい。
雰囲気がオシャレでいい店とは思うけど……。
「(値段がたっっっかい……!)」
一介の高校生がおいそれと出せる金額ではない。
せっかくいいデザインの服を見つけても、
値札を見てギョッとし、そっと棚に戻すだけ。
分かってるよ…!! どう考えても私は場違いだって!!
紡久先輩みたいな人じゃないと釣り合わない。
私みたいなファッションレベル1のザコは、
服屋を見て歩くだけでもスリップダメージで死に至る!!
「安美ー。ちょっと来てくれないか。」
私が切歯扼腕していると、紡久先輩に呼ばれる。
「はーい どうしたんですか?」
「こういうの、君に似合うと思うんだが、どうだろう。」
「へぇ〜!! いいですね!おいくらですか?」
「▓▓▓▓円だね!」
「へ、へぇ〜…(うぉっ、すっごい高い!!!)」
挙動不審になる私を見て、紡久先輩は微笑み、
そのままレジへと持っていく。
「すみません、これください。」
「ちょちょちょ何ナチュラルに会計してるんですか!!」
「何って……君へのプレゼントだよ。」
「う、嬉しいですけど、お金大丈夫ですか!?!?」
「つらたんたん退治の報酬があるから大丈夫だよ。
それより、さっき躊躇って戻した服。
それも気に入ったのだろう? 持っておいで。
まとめて私が会計してしまうから。」
「(こ、この人、私のことよく見てるなぁ…!!)」
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「さて、会計も済んだことだし、次はどこへ行こうか。」
「あ、自分の荷物はさすがに自分で持ちますよ?」
「いいって。私が安美のためにしたいんだ。」
「そ、そうですか…」
手を繋ぎ、私たちは再び歩き始める。
「高校はどうだい? 授業にはついて行けそうかい?」
「そうですねー、数学がちょっと難しいです……」
「数学かー。まあ初めは誰だってそうさ。」
「先輩もですか?」
「ん? ああ、もちろん。私も初めはとても苦手だったさ。
でも根気強く取り組んで、徐々に克服していったんだ。」
「すごいですね、先輩は。」
「君こそ、言葉高校に入学できたということは、
相当の努力を積み重ねてきたのだろう? すごいことさ。」
「いや……、今の私は怠惰そのものですよ。
休日にはマンガやゲーム三昧で1日が終わりますし。」
「……ふむ。君はマンガやゲームが好きなのか。」
「はい。受験の時はずっと我慢してまして……。
その反動で、今はもうめちゃくちゃやってます。」
「ならいいじゃないか!
今までできなかった分、今は思いっきりやればいい。
君はそれだけたくさん頑張ってきたんだ。
もし君の“好き”を咎める輩がいたならば、
遠慮せず私を呼ぶと良い。折檻してやろう。」
「あ、ありがとうございます…。」
紡久先輩は、本当に頼りになる人だ。
私の手を握る掌はこんなに温かく、頼もしい。
だが私は知っている。彼女には弱い面もある。
彼女の家でみた、彼女の心の弱い部分……。
息を飲むほど綺麗で、繊細で、
だけどガラス細工のように脆い、先輩の中身。
私は、彼女に頼りきりの存在にはなりたくない。
どうせなら、彼女に守られるだけじゃなく、
いずれ彼女を守れる存在――対等な存在になりたい。
「ねぇ、先輩。」
私は紡久先輩の手を引く。
「ちょっと、早めの休憩にしませんか?」
「……フフ。ああ、分かった。そうしようか!」
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イタリアンレストラン『ガルデニア』。
その格安な値段から、学生からの人気が高いチェーン店だ。
今日はまだ早い時間だったおかげで、
ドリンクバーに近い席に座ることができた。
「何か取ってくるよ。安美は何が飲みたい?」
「あ、ありがとうございます!
私はアイスティーでお願いします!!」
「分かった。」
「(紡久先輩は気遣い上手だなぁ…。)」
きっと将来先輩と結婚する人は相当幸せ者だろう。
彼女は人格者で、容姿にも優れていて、
人望も厚く、そして、一緒に居ると何だかホッとする。
私とは大違いの、手の届くはずのない『高嶺の花』。
そんな彼女と私が今お茶できているのは、
『つらたんたん』という非日常的な存在がもたらした、
まさに偶然の賜物で、私にはもったいなさすぎるものだ。
「……そんなに難しい顔をしてどうしたんだい?」
「いえ……。とても幸せだなあ、と。」
「そ、そういう風には見えないのだがな……」
安美は、スプーンでドリアを掬いながら、
その不満を紡久に打ち明ける。
「なんだか、私が『言葉贄』じゃなかったら、
こんな幸せを味わえなかったと思うと複雑なんです。」
「……なるほど、ね。君はそんなことを考えていたのか。」
「そ、そんなことってなんですか!! こっちは真剣に――」
紡久はクルクルとフォークにパスタを巻き付け、
安美の口へと素早く放り込んだ。
「!? ――美味しい……!!」
「『人間万事塞翁が馬』というだろう?
要は幸と不幸は表裏一体の関係なんだ。
幸せは時に不幸せを生み、不幸せは時に幸せを生む。
安美の気持ちは分かるよ。だが私はこう考える。
『この幸福は、不幸を乗り越えたご褒美だ』ってね。」
「……本当に、先輩には敵わないですね。」
トマトソースの甘酸っぱさが口いっぱいに飽和する。
先輩から食べさせてもらったパスタは、
不思議といつものパスタよりも美味しく感じた。
「君は本当にパスタが好きなんだな。」
「……? どうしてそう思うんですか?」
「見ればすぐに分かるよ。目線さ。
君は私と話をしているはずなのに、
時折 チラチラとパスタに目移りしていた。」
「そ、そんなに表に出てました!? 恥ずかしい…!!」
顔から火が噴き出しそうなほど身体が熱くなる。
今日は粗相をしないって決めてたのに〜!!
「す、すまない……。そんなに気にするなんて。」
「別にいいですよ……。事実なんで。」
「――でも、そんなに好きだったのなら、
どうして初めからパスタを頼まなかったんだい?」
「……私、先輩みたいに上手く食べれないので。」
「?」
紡久先輩は首を傾げる。
「今日は紡久先輩と二人きりのお出かけだったから、
お行儀悪いこととか、失礼なこととか、
先輩に恥を掻かせるようなことしたくなかったんです!!」
「私の……ため?」
「……あ!! 違います!! 違うんです!!
先輩にこんな恩着せがましいことを
言いたかったわけではなくてぇっ……!!」
「…フフッ ああ。分かっているとも。」
紡久は相好を崩し、安美が慌てふためく様子を眺める。
「私は君を楽しませるつもりが、
逆に君に気を遣わせてしまっていたんだね。すまない。」
「い、いえ…! 先輩が謝ることではないですよ!!
元はと言えば私が勝手にやったことなんですし……!!」
「いや。これは私の過失だよ。
君が私の恥? そんなこと絶対に無いさ。
君は私の特別なんだ。何も気にすることはない。
遠慮なんてしなくていいし、君は好きにすればいい。」
「で、でも――!」
反論を許さないと言わんばかりに、
紡久はテーブルの上の紙ナプキンを1枚取り、
安美の口元に付いてソースを丁重に拭う。
「それに私はね、ありのままの安美が見たいんだ。
私は、美味しそうに食べる君の方が好きだよ。」
「〜〜〜〜ッ!?!?!? か、からかわないでください!!」
「そ、そんなつもりは無かったんだが……」
急になんてことを言い出すんだか。まったく。
……でも、嫌な感じはしなかったな。
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
「――本当に良かったのかい?」
「いいんですよ、割り勘で。
奢ってもらってばかりじゃ申し訳ないですから。」
「そうか…。すまないね。」
「いえいえ。」
紡久が最後に選んだのは、
ショッピングモールに併設された水族館だった。
安美は紡久からチケットを受け取る。
その手際の良さに感心しながら、二人は奥へ進む。
「水族館なんて小学生ぶりですよ。」
集団で戯れる熱帯魚を眺めながら、安美は呟く。
「あれ、そうなのかい? ……なら、私と一緒だ。」
「え? 先輩もそうなんですか?」
「ああ。昔1度だけ来たんだよ。ここに。
あの父と、そして、……母と、一緒にね。」
紡久は在りし日の思い出を偲び、
そして悠々と泳ぐ魚たちから目を逸らすように顔を伏せた。
「私の父は、正直おかしな人だっただろう?」
「……えぇ、まあ。」
否定はしない。良くも悪くも『正しい』人。
でも、その『正しさ』に息が詰まる思いがした。
「昔は、ああじゃなかったはずなんだ。
確か私が、まだ小学2年生だった頃かな。
母が死んでから、あの人は変わってしまったんだ。」
「…………え。」
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言業勝陽には妻がいた。
政略結婚だったが、夫婦仲は非常に良かったらしい。
合理的な勝陽と、人情に厚い妻。
互いの弱点を補い合いながら、仲睦まじく暮らしていた。
だがある日、突然別れは訪れた。
飽食期のつらたんたんが現実世界に降臨したのだ。
飽食期のつらたんたんは災害級の被害をもたらす。
勝陽とその妻はすぐに現地へと向かった。
市街地という複雑な地形での、人を守りながらの戦闘は、
非常に苛烈を極めるものだったと考えられる。
その戦い果てで、彼は妻を失くしたのだと云う。
勝陽は多くは語らなかったため、
未だそこで何があったのかは何も分からないまま。
ただ1つ分かるのは、そこが彼の転換点だったことだけだ。
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「思い返してみれば、あの日から、
私は父の笑顔を1度も見ていない気がする。
そうは見えなかったかもしれないけれど、
かつての父は、本当はもっとよく笑う人だったんだ。」
「え、そうだったんですか?」
「ああ。……きっと今の父は、
私たちに後悔してほしくないのだろう。
だから私たちが失敗しないようにレールを引くんだ。
悪気がないのは承知の上だが、少しだけ、窮屈だね。」
そこまで言い切ったところで、
紡久は慌てて取り繕う。
「ああ!すまない、退屈で暗い話をしてしまって。
少しセンチメンタルな気分になってしまってね。」
「いえ、いいんです。先輩の気持ちはよく分かります。
私の親も、きっとそういうタイプでしたから。」
「! ………そうか。」
子どもを思うが故に、子どもを縛る。
親も人間なんだ。加減を間違えることもあるのだろう。
私の母も、本当は私のことを大切に思っていた。
私はそう信じたいと、切に思う。
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「他に無いんですか? 先輩の話。」
「ないわけではないが、聞いてて退屈すると思うよ?」
「そんなことは無いですよ。先輩の話なんですから。
私、先輩のことなら何だって聞きたいと思いますよ。」
「―――ッ!? き、君こそ私をからかうんじゃない!!」
「先輩は、私がふざけているように見えますか?」
振り返り問う安美に、紡久はバツが悪そうに髪を弄る。
「見えないな。まったく 君はズルい人だよ。
……決して笑わないと約束してくれるかい?」
「笑いませんよ。」
紡久は重い口を開く。
「この先に大水槽があるのは知っているね?」
「ええ、知っていますよ。」
「寝る前にいつも思い出すんだ。
あの日私がここで見た、この大水槽のことを。」
長い通路を抜けた先にある、1番大きな水槽。
小さい魚も大きい魚も皆 群れを成して、
その銀色の鱗を煌めかせながら泳いでいる。
「……きれい。」
目を輝かせる安美の横顔を見て、
紡久はようやく大水槽へと目を向けた。
「綺麗だよね。私もそう思うよ。
アクリルガラスで隔てられた僅かな空間で、
魚たちはこんなにも楽しそうに舞い踊っている。
私は子供ながらに羨ましく思っていたものだよ。」
「……先輩に『羨ましい』なんて感情あるんですね。」
「幻滅したかい?」
「安心しました。先輩も1人の人間なんだなぁって。」
「……そうだね。私は1人の人間だ。」
魚群が照明の光を遮るように水面下を通過する。
「…この夥しい数の魚を見ていると、
自分は本当にちっぽけな存在なんだと思わされるんだ。
初めはそんなこと思いもしていなかったはずなのに、
日を経る内に、私の中で水槽の意味が変化していくんだ。
そして、ある1つの考えが頭を過ぎったんだ。」
紡久の瞳は大きな魚群を捉えていた。
「もしこの世界が1つの水槽なのだとすれば、
私は数ある魚の1匹にすぎないのではないかと。
絶えず自由を求めて藻掻いて、それでも年を取って、
いずれは死んで、『入れ替え』によって、
その役割を別の誰かに取って代わられてしまう。
まるで自分の行く末を見ているように思えて、
どうしようもなく目を背けたくなってしまう。」
彼女の横顔は確かな愁いを帯びていた。
ツンとつつけば割れてしまいそうな儚さがあった。
「……何を言ってるのだろうね、私は。
すまない、安美。今言ったことは忘れて――」
「忘れませんよ。」
安美は紡久の手をより強く握った。
紡久は思わず安美と目を合わせる。
「貴女がただの魚だというのなら、
私だってただの魚です。皆が皆、ただの魚なんです。
たしかに水族館の魚は死んだら入れ替えられます。
でもそれは『人を楽しませる』という役割を、
生涯を通して 自分のやり方で完遂した結果なんです。
誰一匹としてその代わりをできるものはいません。
たとえ同種の個体はいても、同一個体はいないんです。
誰もが皆、唯一無二のオンリーワンなんですよ!!
大丈夫です。もし『入れ替え』の日が来ても私は、
紡久先輩を私の“1番”としてずっと覚えていてあげます。
ほら。これでもう嫌じゃなくなくなりましたよね!」
「―――ああ、そうだね。」
安美の言葉は、いとも容易く私の悪印象を払拭してくれた。
私の心は今、こんなにも快い温かさで満たされている。
「――綺麗だ。」
安美なら私のすべてを受け止めてくれるのではないか。
そんな身勝手な妄想を抱くほどに、私は熱に溺れていた。
「ねぇ、安美。1枚だけ一緒に写真撮っていかないか?」
「えぇ……写真に写るの苦手なんですけど……」
「お願い!1回だけ!1回だけだから!!」
「わ、分かりましたよ。しょうがないですね…」
やっぱり、この人が何を考えているのかは分からない。
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
やがて私たちはお土産コーナーへと辿り着いた。
「少し見ていこうか」
「はい!」
縫いぐるみ、ボールペン、フィギュアなど、
色々な種類のグッズが並べられている中、
あるキーホルダーが、私の目に止まった。
「それが気になるのかい?」
「うわぁびっくりした!! 驚かせないで下さいよ 先輩。
そっちの棚はもう見終わっちゃったんですか?」
「まぁね。…それはクラゲのキーホルダーかい?」
「はい! なかなか可愛いらしいデザインだったので。」
「ふむ……」
紡久は眉を寄せてクラゲと睨めっこする。
「めっちゃ凝視してますけどどうしたんですか?
もしかして……あんまり好きじゃない感じですか?」
「ああ、いや。私は昔クラゲに刺されたことがあってね。
心肺停止で皆がてんやわんやになったんだ。」
「笑顔で言うことじゃないですよね!?!?」
紡久の衝撃のカミングアウトに、
安美は驚愕せざるを得なかった。
「それって大丈夫だったんですか……?」
「ウチは諺を生業としている家系なんだ。
死人を生き返らせること以外なら大抵なんとかなるさ。
あの時だって、誠兄が私を救けてくれたんだ。」
「すごい人なんですね……誠さんって。」
「ああ。自慢の兄さ。」
紡久先輩が誇らしそうに笑う。
そういえば、前に来人さんもベタ褒めしていたな。
いつか、直接会ってみたいな。
「ねぇ、安美。もし良かったらなんだが。
そのクラゲのキーホルダー、お揃いで買わないかい?」
「お揃い!?!?!?」
安美は素頓狂な奇声を上げる。
「なぁに、ちょっとした記念だよ。
安美と水族館に来たっていう証がほしいんだ。」
「……それってさっきの写真じゃダメなんですか?」
「あれは……。なんていうか……、
1枚くらい、君の写真を持っていたくて……。
って!!! 私に何を言わせるんだ!! いいから買うよ!!」
「は、はい……。」
結局 私は先輩の勢いに圧倒されるがまま買い物を済ませた。
私は白いクラゲを、先輩は黒いクラゲを購入した。
買ったものは仕方ない。うん。仕方ない。
帰ったら学校のカバンにでも付けてやるとしよう。
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
そして私たちはショッピングモールの出口へ向かった。
他愛もない話をしながら、二人で歩幅を合わせて歩いた。
すると途中で『制服専門店はっとり』の前を通りすがった。
「あ、ここ。」
「おや、安美もここで制服を買ったのかい。」
「はい。……ということは先輩もここで?」
「ああ。私も一昨年ここで購入したんだ。
言葉高校の制服を買える店は2つあるんだが――」
楽しそうに出口へ向かう二人を尻目に、
虎のように黄色い髪の少女が制服屋を訪れる。
「おや、時間通りだね。届いているよ。
ほら、これがご注文の品――言葉高校の制服だ。」
「おおきに。」
少女がカラッと笑って代金と制服を交換する。
「―にしても大変だねぇ。こんな時期に転入だなんて。」
「仕事の都合やからしゃあないやん。
まあ しっかりと勉学に励みますさかい。
心配せんといて〜な。ほんじゃあ、もう行くわ。」
「ああ。気をつけてな。」
少女は駆ける。
彼女が招き入れるのは、果たして福か禍か。
私の知らないところで、運命の歯車は静かに回り続ける。
☆オマケ
このコーナーでは、作中で使われた諺の意味や『使われ方』について解説を行います。
①魚心あれば水心
今回のサブタイ。『相手に歩み寄れば、相手もそれに応えてくれる』という、人間関係における対応を表す諺。相手に好意を示したのなら、相手も相応の好意を返してくれる。それは逆も然り。
②高嶺の花
『遠くから眺めるだけの、決して手の届くことのない憧れの存在』を表す諺。ラブコメでよく使われがち。
③人間万事塞翁が馬
『人生の幸不幸は非常に変化しやすく、予想のしようがないため、その時々で一喜一憂するのではなく、冷静に構えた方が良い』という故事成語。一見不幸に思える事柄も、時間を置いてみれば幸福の前触れかもしれない。




