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九州大学文藝部・2025年度新入生歓迎号

桜色のノート

作者: 桃灯

 歩くたび、足元に桜の花びらが舞う。伊都キャンパスの風は、ひどく強い。


「ああ、しづかだしづかだ。めぐり来た、これが今年の『俺の』春だ!」


 そう呟き意気込むものの、見上げるサークル棟に足はすくむし、隣のテニスコートからあがる歓声に震えてしまう。全然「しづか」じゃない。


 それでも行かねば変われない、俺は文藝部の部室に向かって歩き出す。






「田中翔太くんっていうんだね、文学部?」


 中野と名乗ってくれた先輩が、部誌を差し出しながら尋ねてくる。少し埃っぽい匂いのする、本棚だらけの部室のあちこちで、似たようなやり取りが繰り広げられていた。俺はやや緊張しながらも首肯する。


「やっぱり。一番多いんよね、もちろん他学部もいるよ、先代部長は理学部だったし」


「そう、読書好きなら割と誰でも楽しめると思う」


 口々に言われてほっとする。俺と似た雰囲気の先輩が多いのも安心材料だった。促され、先ほど受け取った部誌をぱらぱらめくってみる。桜のイラストが表紙のその中には、短編や詩が詰まっていた。そう、受験期に息抜きで覗いた小説投稿サイトにもこの文藝部の作品が載っていた。それを見て、俺もこういうのが書きたいって思ったんだよな。


 ふと目線を外すと、奥のキャビネットの、その三段目が少し開いていることに気がついた。部誌を置いて立ち上がり、開けてみる。びっちりとノートの入っているそこから一冊のノートが飛び出していて、それでわずかに開いていたようだった。桜色の表紙のノート。「見つけても開くな」と殴り書きがあった。逆に気になるだろ、これ。


 そっと周りを見渡すが、先輩たちは忙しそうに他の新入生の対応をしていて見ていない。つい、出来心で……。そんな言い訳を用意しながら、開いてしまった。


 ――中は真っ白だった。罫線すらない。正直期待外れだった。


 閉じようとして、一ページ目に薄い鉛筆の文字で、何か書いてあるのに気づく。


「春の言葉を書け」


 なんだ、春の言葉……? そう思いつつ、「桜」と書いてみた。途端、ノートが微かに震える。俺の書いた文字の下に、淡く文字が光っていた。


「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」






 次の日、センターゾーンを歩きながら、俺はあのノートのことについて考えていた。「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」――確実に、梶井基次郎の『桜の樹の下には』の一節だ。なんでそんな意味深な一節が……、もしかしてこのキャンパス内の桜の樹の下には本当に屍体が……?


「――わ、わっ」


 俺が青くなっていると、背後から小さな声が聞こえた。振り向けば、ひとりの女子がずべしゃあと転ぶところだった。その手から桜色の冊子が滑り落ちる。


「えっと、大丈夫?」


 拾えば、それは俺も昨日部室でもらった文藝部の部誌だった。声をかければ、彼女は「大丈夫」と恥ずかしそうに笑う。黒髪のボブに、同じ色の眼鏡はよく似合っていた。


 彼女、高橋彩華と、俺が意気投合するまでは早かった。同じ学部であること、同じ文藝部に入部したこと。それらを話したあとに、俺はふと思いついて、彼女を部室に誘った。


「これが田中くんの言ってたノート?」


「そ、試しに書いてみてよ」


 彼女は鉛筆を持ち、「蜂」と書いた。ノートが昨日と同じようにぽうと光る。


「蜂が一ぴき飛んで行く 琥珀細工の春の器械」


 宮沢賢治の『鈴谷平原』だ。俺と高橋は顔を見合わせた。






 高橋はファンタジー好きだったらしく、目を輝かせて検証を始めた。


「例えば、『海』とかはヒットしなかったの」


「春じゃなくて夏判定なのかもしれないな」


 部室でこっそり謎に向かい合うのは、小説の中の登場人物になったみたいだ。


「あ、見て! 『星』って書いたんだけどさ……」


 高橋が向けてきたノートには「春の星を落して夜半のかざしかな」と淡い光が浮かんでいた。『草枕』だ。


「これさ、先輩たちが仕掛けたやつなんじゃないかな」


 中野先輩に尋ねてみたが、「僕は知らないな」と彼も首を傾げる。


「僕らより前の先輩なら知ってたかもやけど……。なかなかいらっしゃらないしね」


 結局何のヒントもなく、この捜査ごっこも行き詰まってきた。


「本当、なんだろうなこれ……」


 何気なくノートをひっくり返して、俺はそこだけ薄汚れていることに気がついた。袖で拭ってみれば、表紙と同じ乱雑な字が見える。


「図書館、四階、桜の棚」


 俺たちは思わず互いの顔を見た。高橋の目は喜びにらんらんと輝いていた。






 図書館の四階は、人が多いのに静かで、春の光が差し込んでいた。いまだ暖房が効いていて、ほんのり暑い。


「桜の棚……ってどこだろう」


「わかんないな、片端からあたっていくか」


 目当ての棚は果たして、存在した。桜模様の棚があったのだ。奥に手を伸ばすと、少し埃の積もった本の裏から、一枚、紙がひらり落ちてきた。


「『ノートは文学の春。言葉を与え、導く』……だって」


「……ノートと照らし合わせたら、何かわかるんじゃないか?」


文藝部にあったノートだ。きっと最後には、文藝部に帰る必要がある。


今まで読んだ小説を思い返しながら、俺はそう確信していた。








 部室に帰った俺たちは、まずこの桜色のノートがあったキャビネットを探ることにした。


「――やっぱり。この引き出しに詰まってたノートは、過去の文藝部の日誌だったんだ」


 推理がぴったりはまったことにガッツポーズする。十数年前の日誌に、この桜色のノートの経緯も書いてあったのだ。


「つまり、ずっと前の先輩が新入生に謎解きさせるためにつくったのが、この桜色のノートだったんだね」


「ああ、面白いことに、数年後の文藝部にはもうその話は伝わってなくて、『文学の霊が宿ってる』って噂まであったんだと」


 俺は笑って日誌を閉じた。時間のあるときに読み返してみてもいいだろう。この部室にある日誌も、部誌も全部。このサークルの辿ってきた歴史を、知りたくなってしまった。


「……ねえ、そろそろ桜も散るし、新歓シーズンも終わるよね。もうこの桜色のノートも書けるのはあと一回だけ、とかだったりしないかな?」


 そういうのって、小説によくあるじゃん、と高橋が言う。あり得るな、と俺も返す。


「ね、私書いていい?」


 そう言いつつ既に鉛筆を持って待機している高橋に思わず笑いながら頷く。彼女はとびきり丁寧に時間をかけて「花」と、ただ一字書いた。


 ノートが淡く光って震えた。俺たちはそろって、その文字を読みあげる。


「燻銀なる窓枠の中になごやかに 一枝の花、桃色の花」


 そのとき、開けていた窓から強く風が吹き込んだ。その風が、ノートを俺たちの手から攫っていく。


「え、待って!」


 高橋が声をかけた途端、それは光って弾けた。その桜色は花びらになって、窓の外へと飛んでいく。俺たちも慌てて外に出た。本物の桜も、この強い風に散っている。


 ノートが春に、溶けていく。








「ねえ、さっきの一節、田中くんは知ってる?」


 俺たちはしばらく放心していた。高橋の声にゆっくりと視線を戻せば、彼女は出会ったあの日みたいに恥ずかしそうに「私、知らなくってさ」と言った。


「中原中也の『春の夜』だよ」


 高橋は目をみはって、ついで「田中くんって、中原中也が好きなんだね」と微笑んだ。部室に足を踏み入れた日を思い出す。あの日も、彼の詩の一節を呟いて勇気をもらった。


「……うん、大好きなんだ」


 桜は散り、新しい緑が芽吹いていた。空に舞い上がった桜の花びらが、春と文学の秘密を解いた俺たちの未来を祝福しているようだった。

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