名を継ぐ時
夕食の片付けを終え、子どもたちが寝静まったリビングには、穏やかな静けさが漂っていた。
ダイニングテーブルには、一枚の紙が広げられている。
婚姻届――。
いよいよ、この書類に名前を書き込む日が来たのだと、あゆみはじっとそれを見つめた。
すばるがペンを手にしながら、ゆっくりと口を開く。
「名字、どうする?」
その問いに、あゆみは少し驚き、視線を上げた。
「名字?」
「うん。籍を入れるってことは、どちらかの名字も変わることになる。星宮になるか、それとも……如月のままでもいいんだよ」
すばるは、あゆみの意思を尊重しようとしているのだろう。
けれど、その優しさが逆に、あゆみの胸をざわつかせた。
「あのね……私、如月って名字、好きなの」
そう言って、あゆみは婚姻届の「新しい姓」の欄をじっと見つめる。
「ずっとこの名字で生きてきたし、お母さんやお父さんとの絆を感じる名前でもあるから」
「だから、正直、変わるのがちょっと寂しいって思ってた」
そう、最初から“星宮”になることに迷いがなかったわけではない。
如月として生きてきたこと、母の名字を捨てるような感覚――それが、心のどこかに引っかかっていた。
すると、すばるは少し微笑み、「それなら、無理に変えなくてもいいよ」と穏やかに言った。
「名字が変わることより、これからどう生きていくかのほうが大事だから」
彼の言葉は優しくて、そして正しかった。
だけど――あゆみは、少し考えた後、小さく首を振った。
「……私は、星宮になるよ」
その言葉に、すばるが驚いたように瞬きをする。
「え?」
「如月家との絆がなくなるわけじゃない。でも、私はもう、すばるさんと一緒に生きてる」
「蓮や莉桜とも、これからもっと一緒に歩んでいきたい」
「だったら、私は“如月の娘”としてではなく、“星宮の一員”として生きていくほうがいいと思う」
言葉にしながら、自分の中にすとんと落ちる感覚があった。
名字が変わることは、家族としての道を選ぶということ。
母と父がくれた名前に誇りを持ちつつ、新しい家族と生きていく道を選ぶ。
「……そうか」
すばるは、しばらくじっとあゆみを見つめた後、ゆっくりと微笑んだ。
「じゃあ、僕たちは、正式に“家族”になるんだね」
あゆみも微笑む。
「うん」
「……ありがとう」
すばるは優しく言って、そっと婚姻届の紙をなぞる。
しばらくの沈黙の後、ふと、あゆみは思い出したように顔を上げる。
「……でも、すばるさんのお母さんには、まだ会っていないよね?」
「え?」
「結婚の話を進める前に、一度ちゃんとご挨拶しなくていいの?」
その問いに、すばるの表情が一瞬、少し硬くなった。
彼の母、星宮詩織は、かつてすばるの結婚に強く反対していた。
そして、離婚後も、彼に対して厳しい言葉をかけ続けていた。
「……うん、そうだね」
すばるは深く息をつく。
「あまり会いに行けてなかったし……母さんとは、最後にまともに話したの、離婚のときだったから」
「あのとき、母さんは“だから言ったじゃない”って、そんな言葉しかくれなかった」
「その後も、子どもたちとはほぼ関わろうとしなかったし……正直、僕もどう接したらいいのか分からないんだ」
その言葉には、すばるの母親への複雑な感情が滲んでいた。
あゆみは、そんな彼の様子を見ながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……だからこそ、ちゃんと会いに行こう?」
「え?」
「いきなり“籍を入れました”って報告するより、ちゃんと話をしたほうがいいと思う」
「家族になるって決めたなら、すばるさんのお母さんとも、向き合いたい」
あゆみはそう言って、そっとすばるの手を取る。
すばるは、しばらく考えた後、小さく頷いた。
「……うん。そうだね」
「ちゃんと話をしなきゃいけない」
そして、ふっと小さく笑う。
「正直、緊張するけど……あゆみが一緒なら、大丈夫な気がする」
あゆみも微笑み返す。
「私も、きっと緊張するけどね」
再び、婚姻届に目を落とす。
「私は、星宮になる準備ができた」
「如月家との絆も大切にしながら、これからは星宮家の一員として生きていく」
「そのためにも、ちゃんと詩織さんと向き合いたい」
すばるはしばらくじっと彼女を見つめた後、そっと微笑んだ。
「……行こう、一緒に」
そして、ゆっくりとペンを置いた。
次に婚姻届にサインするのは、詩織と向き合った後だ。




