ママ
夜のリビングには、静かな空気が流れていた。
子どもたちはすでに寝室へ行き、すばるはソファで資料を読んでいる。
あゆみは、テーブルの上で拳を握りしめたまま、ため息をついた。
(もう、どうしていいか分からない……)
最近の出来事が、何度も頭をよぎる。
学校では、目立ちたくないのに、気づけば自分が話題の中心になってしまう。
「知り合いの子」と言ってしまったことが、今も心の奥に引っかかっていた。
(子どもたちは、私のことどう思ってるんだろう)
(嫌われてないかな……でも、私は家族になりたいと思ってる)
どこにも逃げ場がなくなったような気がして、ふと、立ち上がった。
「すばるさん、私……」
声が震えた。
すばるが顔を上げる。
「どうした?」
「私、子どもたちに聞いてみる……本当に、私と家族になりたいか」
すばるは驚いたように一瞬目を見開いたが、すぐに静かに頷いた。
「……わかった」
寝室の扉をそっと開けると、蓮と莉桜はまだ完全には寝ついておらず、小さな声でおしゃべりをしていた。
「あ!あゆみちゃん」
莉桜があゆみの姿を見つけると、嬉しそうに布団から顔を出した。
「どうしたの?」
蓮が、不思議そうにあゆみを見上げる。
あゆみは、意を決して二人の前に座った。
「ねえ……蓮くん、莉桜ちゃん」
二人はあゆみの真剣な顔に、じっと耳を傾ける。
「私、パパと結婚したいと思ってるの」
蓮の目が大きく見開かれる。莉桜はぽかんとしている。
「あゆみちゃん、けっこんするの?」
「うん。でもね……」
言葉が詰まる。
(どう聞けばいい? どう言葉にすれば、伝わる?)
「あのね、私は……ずっと一緒にいたいと思ってるの。でも、私って、蓮くんや莉桜ちゃんにとって、どういう存在なのかなって……」
蓮がじっと考え込んでいる。
「あのね、パパを盗った悪い人って思ってる?」
その問いに、蓮はびっくりしたように首を振った。
「そんなこと思ったことない!」
莉桜も「うんうん!」と大きく頷く。
あゆみは少しホッとしたように、でもまだ迷いながら続ける。
「私、本当のお母さんじゃないけど……ママって言ってもいいのかな?」
その問いに、蓮は少し考えてから、ゆっくりと言った。
「……ママじゃなくて、あゆみちゃんはあゆみちゃんだよ? いつも遊んでくれるし、パパのこと大好きだし。」
蓮の言葉に、あゆみは思わず息をのんだ。
「でもね、ずっとママっぽいなーって思ってた」
蓮は少し照れくさそうに笑う。
「前にもママがいた気がするんだけどね、いつのまにかいなくなってたんだ。でも、あゆみちゃんはずっといてくれて寂しくないから、好き」
その言葉に、あゆみは胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
(……私は、いつのまにか“母親”という称号を得ようとしていたのかもしれない)
子どもたちに「ママ」と認めてもらいたかったのではなく、ただ“家族”として当たり前に過ごせる関係が欲しかった。
――なのに、私は肩書きにこだわっていた。
「あゆみちゃんは、ずっとそばにいてくれるよね?」
莉桜の問いかけに、あゆみは笑って頷いた。
「もちろん」
子どもたちがようやく眠りについたあと、あゆみはリビングに戻った。
すばるは、静かに待っていた。
「聞けた?」
「うん……」
あゆみは、そっとため息をつく。
「ママって呼ばなくてもいいんだって。でも、家族だって」
その言葉に、すばるは微笑んだ。
「……よかったじゃないか」
「でも……」
あゆみは、指に触れる右手の指輪を見つめる。
「私たち、結婚しようって決めてたよね? なのに、まだこのままでいいのかな……?」
静かな問いかけだった。
すばるは、少しだけ表情を曇らせる。
「……あゆみは、結婚したい?」
「うん。でも、怖いの」
ぽつりと零れた言葉。
「お父さんに言われたことが、ずっと頭の中にあるの……遺す側と、遺される側のことを考えなきゃいけないって……」
すばるは、そっと息を吐いた。
「……僕も、ずっと考えていた。でも、未来のことを恐れて、今の幸せを見失うのは違うと思う」
そう言いながら、すばるはあゆみの手を取る。
「今すぐ“母親”にならなくたっていい。僕も、最初から“父親”になれたわけじゃないから」
あゆみの目が揺れる。
「だから、焦らなくてもいいんだよ」
――そうだ。
私は、今すぐ完璧な母親にならなくてもいい。
子どもたちと向き合いながら、少しずつ、家族になっていけばいい。
「……私、前に進みたい」
すばるが微笑んで、頷いた。
「じゃあ、行こう」
この先には、まだたくさんの試練があるかもしれない。
でも、それでも――
この道を、歩いていく。




