言いたい言葉、言えない言葉
昼休みの職員室は、いつものように和やかな空気が流れていた。
家庭の話題や趣味の話で盛り上がる教師たちの会話を聞きながら、あゆみは静かにコーヒーを口に運ぶ。
「うちの子、昨日も“もう一回読んで”って言い出してさ~」
「寝かしつけって難しいよね、つい付き合っちゃうし」
「ああ、わかる! うちの子も、寝る時間過ぎても話し始めるし……如月先生は、まだそういうのないでしょ?」
ふと、隣の女性教師が笑いながら話を振ってきた。
「あ、えっと……」
言葉が詰まる。
本当は、家に帰れば子どもたちがいる。
蓮も莉桜も、眠る前に「今日あったこと」を話したがる。
でも、ここでは、それを話すことはできない。
「そうですね、まだ考えたことないです」
自然に笑って答えたつもりだった。
でも、その瞬間、右手に光る指輪が、胸の奥を少しだけ締めつけた。
放課後、教頭に呼び出された。
応接室の空気は、妙に張り詰めていた。
「如月先生、少しお話を」
「……はい」
すでに、何の話かは予想がついていた。
「前回も少しお話ししたが、やはり最近、先生のことで教員や保護者の間で話題になってるらしくてね」
冷静な口調。
しかし、その中には「お前のせいで問題が起きかねない」という圧力が滲んでいる。
「如月先生はまだ新任で、しかもお若い。そんな先生が子どもと一緒にいる姿を見せると、どうしても色々な憶測が飛び交うものなんだよ」
「憶測……ですか」
「例えば、若いのにシングルマザーなのか?とかね」
その言葉に、あゆみの表情が強張る。
「まあ、誤解を招くような行動は控えてくれたほうが、学校としても助かるんだ」
学校として、ではなく 「学校の体裁として」 という意味なのは明らかだった。
「……わかりました」
それだけ返して、あゆみは視線を落とした。
――私は、何をしているんだろう。
――なぜ、隠さなきゃいけないんだろう。
大学時代、これをネックレスにしてみんなに自慢していた。
「私、結婚するんだ!」と。
なのに、教員になった途端、隠すことばかりになった。
夜、リビングでコップの水を口に含みながら、あゆみはため息をついた。
「……今日、また教頭から言われたの」
ソファに座っていたすばるが、ゆっくりと顔を上げる。
「……また?」
「“若いのに子どもがいると誤解を招く”って……“余計な詮索をされるのは問題だから、気をつけてほしい”って……」
すばるの眉が僅かに寄る。
「……は?」
それまで静かだった声が、少しだけ低くなった。
「“若いのに”って……要するに、僕といることが“余計な事情”だって言いたいんだよな?」
静かに言いながら、すばるは眉を寄せた。
「……腹立つな」
その言葉に、あゆみは思わず驚いた。
普段、冷静な彼が、こんな風に感情を露わにすることは滅多にない。
「すばるさん……」
「僕は、教育の在り方を変えたいって思って、ずっとこの仕事を続けてきた。でも……やっぱり前時代的な思想が蔓延してるよね。これ普通ならセクハラとして取り扱われるのに。」
すばるの拳が、ソファの肘掛けを軽く叩いた。
「……それに僕は、あゆみに“家族を隠せ”なんて思ったこと、一度もないよ」
その言葉に、あゆみの喉が詰まる。
「でも……現実は、そうじゃない。僕と一緒にいることが、あゆみの足枷になってる。そんな風に思われてるのが、悔しくて仕方がない」
静かだけれど、確かな怒りを帯びた声。
「僕たちがしていることは、間違いじゃないのに……」
すばるの手が、あゆみの手をそっと握る。
その指には、右手に移された婚約指輪があった。
「……これ、本当なら、左手につけたかったよね」
あゆみは、小さく頷く。
「うん。でも、今はまだ……」
言葉に詰まる。
「無理しなくていいよ」
そう言ってくれるすばるの優しさが、今は少しだけ苦しかった。
「……私は、どこに立っているんだろう」
学校では“教師”として。
家では“家族”として。
けれど、どちらの世界にも“完全には馴染めない”気がする。
“家族”であることを隠すことは、本当に正しいのだろうか。
自分の中にある、説明のつかない違和感。
それは、次第に大きくなっていく。




